愛しき日々 (久七 龍治)

 
  愛しき日々
 
山羊と少女の愛を描いたおとぎ話のような実話です。
 
あなたも、少女と山羊の別れには涙をこえることができないことでしょう。
久七 龍治
 
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 一週間もすると、 チビは五歩ほど続けて歩けるようになった。好子の目に少しずつではあるが、 このまま回復していくように思われた。
 稀に見る大型台風が接近しつつあった。毎日雨が降り続いた。その影響かどうかわからないが、 またチビの足は立つことができなくなった。そしてもっと悪いことが起こった。一緒の部屋にいたコウメエーが同じ病気にかかった。八月の下旬だった。コウメエーは後ろの二本がもたついていたと思ったら、 次の日にはもう全部の足が動かなかった。
「おかあちゃん、 お願いやから、 お医者さんを呼んで」
 好子はたまらず母親に泣きついた。必死の思いで、 にが虫を噛み潰したような顔を前にして両手を合わせた。薄情な上に、 金にけちな母は内心しぶしぶであったろう。しかし近所の手前も考えたのかも知れない。
「これで歩けなければ、 駄目だと思ってほしい」
 役場に勤めている人に頼んで連絡をつけて来てもらった獣医は、 小さな瓶を差し出した。白い錠剤がぎっしりつまっていた。四百円した。父の日当は六百円ほどだった。二匹いて二瓶必要なのに、 母が買い求めたのは一瓶だけだった。
「おかあちゃん、 なんでや、 なんで一瓶しか買わないのや」
「あの山羊にはのませんでいい」
 思いもしなかったことに唖然として一瞬言葉を失った。たった四百円の金を惜しんで、 チビの方を顎でしゃくる母が、 得体の知れない恐ろしいものに見えた。ふっと涙がこぼれそうになった。敵意にも似た怒りがこみ上げてきて、 思わず鬼ばばあと叫んでいた。医者は何も言わず帰っていった。
 山羊の世話などしたこともない癖に、 母は薬をのませたがった。コウメエーの首を跨いで、 口を両手でこじ開けるようにした。コウメエーは嫌がって、 固く閉じたままだった。馬鹿なやつと言いながら母はコウメエーの頭を叩いた。
 何度試みてもコウメエーは決して口を開けなかった。自分の思い通りにいかない母は、 思案に暮れて最後に鼻を塞いだ。山羊は人間と違って、 口から息をしないらしく思われた。呼吸のできなくなったコウメエーは苦しそうだった。目をきょろつかせ、 首を頻りに動かした。腹がひくひくと波打った。とうとう我慢の限界がきたと見えて、 コウメエーは首をもたげた。それから、 大きく口を開けて悲鳴にも似た声をあげた。母はすかさず錠剤を投げ入れた。
 二日もすると、 薬剤が効いてきたのか、 腹ばいになったままで、 今まで棒のように投げ出していた前足を頻りに動かしだした。立ち上がりたいのだが、 まだそこまでの力がないらしかった。
 コウメエーが良くなれば良くなるほど嬉しいことだが、 反面、 脇で寝ているチビが哀れでたまらなかった。母の言い方を借りれば、 乳を出さず何の役にも立たなかったにしろ、 好子は平等に二匹を扱ってやりたかった。薬は十日分しかなかった。性格からして母が次なる薬を買うことは絶対にあり得ないと思うと、 じっとしていられない焦燥を感じた。
 三日目の朝だった。 
「おかあちゃん、 私がメエーちゃんにのませてやる」
 四錠の錠剤を手にして、 山羊小屋に行こうとしていた母の前に好子は立ち塞がった。母は、 無言のまま好子を見つめた。なかなか口を開かなかった。鬼ばばあと罵られたその目が、 おまえの考えは見透かしているのだと言いたげだった。好子はひるまず片手を前に突き出した。だが、 その手に母はなかなか薬を載せようとはしなかった。
「なに馬鹿なことをやっているんや、 はよ渡してやらんかい。薬ぐらい好子にまかせればいい」
 母娘の様子を傍でうかがっていた父が苛立った声をあげた。母は父には逆らえないらしかった。
 四錠の錠剤を手に持つと好子は山羊小屋に急いだ。後を追ってきた妹に二錠手渡した。
「あんたは、 コウメエーにのまし」
 内に入いるや好子はすぐにチビの首を跨いだ。母がやっていたように鼻を手で押さえた。チビが口を開けるのを待ちながら、 母の足音が今にも聞こえてきそうな気がした。コウメエーの方はいくら時間がかかってもよいが、 チビに与えている現場を見られないようにと気持ちばかりが焦った。どういうわけかチビはすぐに口を開けた。
 一週間がたった。母が薬の小瓶を目の前にかざして、 じっと見入っていた。どうやら残った数を数えているらしかった。馬鹿なやつ、 好子は内心そんな思いだった。
 どうか歩けるようになってくれと祈るような毎日だった。しかし、 十日目の朝が来ても二匹は立ち上がることはできなかった。当然の結果かも知れなかった。もし、 コウメエーだけにのませておけば、 コウメエーは歩けるようになったろうか……。だが好子は、 自分のやったことに後悔はしないつもりだった。同じ屋根の下に生活しながら、 一方には薬を与え、 あとの一方の方は振り向いてもやらないそんな飼い方など、 彼女自身が絶対に許さなかった。
 朝夕涼しい風が吹くようになった。仲秋の名月の朝だった。好子はいつものように山羊小屋に向かった。戸口の手前でコウメエーと目が合った。コウメエーは部屋の奥の壁に頭を凭れて入り口の方を見ていた。久しぶりに生き生きと輝いていた。今日は元気がいいように見受けられた。
 入り口を開け、 内に入った。部屋の中は歩くと換えたばかりの藁がかさかさとなった。二匹の足がだめになってからは、 今までよりも頻繁に藁を換えるようになっていた。コウメエーまでの距離が三メートルはあったろうか。大股で歩いた。近寄っていきながら微笑みかけた。
「やあ、 コウメエー」
 傍に座りこんだ。それから、 「おはよう」 と、 にこにこ顔で話しかけた。コウメエーのいる場所は、 この春生まれた子山羊のために建て増しした小屋の影になっていて、 横たわっている体の上を涼しい南風が抜けていた。
 頭を抱え込もうとして伸ばした両手を、 はっとして好子は思わず止めてしまった。生き生きとして、 微笑んでいるようにすら見えるコウメエーの視線が一点を向いたまま動かなかった。
「メエーちゃん」
 無意識のうちに、 好子はコウメエーの顔を両手で包みこんでいた。注意して見ると、 輝くばかりの目の中に細い糸屑のような埃が三つ見えた。慌てて腹の上に視線を移した。不安が的中して、 やはり呼吸がなかった。好子はそれから慌ててチビの方に視線を移した。死があまりにも唐突すぎたので、 ふと殺されたのではという気持ちが働いたのだ。
 チビは頭をもたげたままで、 好子を見ていた。今までに見たこともない悲しい目の色をしていた。既に母親の死を理解していると見えた。コウメエーに気をとられて気づかなかったが、 おそらく好子が山羊小屋に近づいたときから、 チビは好子の一部始終を見ていたに違いなかった。好子の目からみるみる大粒の涙が溢れて頬を伝わった。このとき、 好子は自分を頂点として、 妹とコウメエーたちと四人で築いてきた一つの家庭が音を立てて崩れたのを自覚した。子山羊のときから、 いつも好子の後ばかりついて歩いていたチビにしてみれば、 突然襲った悲しみを分かち合える唯一の相手は好子かもしれなかった。
「チビ……」
 後は言葉にならなかった。好子はコウメエーの頭を両手で包み込むように抱えたまま、 今度は声をあげて泣き崩れた。
 コウメエーが死んだことを妹に伝えた。わぁわぁと声をあげて泣きじゃくる妹を、 好子は自分も泣きながら、 泣くなと叱りつけた。
 納屋から麦藁で編んだ薦を出してきて全身を覆った。蠅にたかられることは必然だろうし、 死体を誰にも見られたくなかった。
 それから腑抜けた状態で学校に行く用意をした。コウメエーが死んだために学校を休んだと知ったら母は何と言って怒るかしれなかった。
 通学路を歩きながら、 稔った稲が次々と刈られていくのが見えた。稲刈りの季節で、 朝早くから人々は田圃で働いていた。そのおかげで、 今朝母も家にはいなかったのだ。しかし、 好子は一歩一歩と歩を進めたけれども、 これほど自分の心に逆らった行動をしたことはなかった。
 夜になった。満月が東の空高く昇っていて、 澄み切った夜空は雲一つなかった。星がいつもより大きく輝いて見えた。しかし好子の心を映して、 全てのものが悲しい闇の景色だった。
 コウメエーとの永遠の別れが刻々と近づいてきていた。
「お月見さんは、 メエーちゃんを埋めてからにしよう」 と言って、 夕食を終えると孫一が立ち上がった。
「この山羊は死んでもきれいだ」
 コウメエーの体を抱きかかえて小屋の外に出しながら孫一が感想を述べた。季節がら、 コウメエーの体からはもう死臭が漂っていた。普段、 土を素手で触っている癖に、 頭のほうを持てと言われて、 母は寝床の藁を当てがって、 コウメエーの頭に手をやるのだった。
 コウメエーは河川敷きの草場に埋葬された。石ころで埋めつくされている川原から二メートルほど高くなって、 自然のままに放置された草場は、 大水が出るたびに端のほうから少しずつ削り取られていた。コウメエーを載せた畚の一方を担いで父の前を歩く母はどういう心理なのか、 「大水が出たら流れるように」 と言いながら、 崩れてきている端の方の近くへ近くへと進んでいくのだった。
「もう、 この辺でいい」
 怒ったように言う父の声に好子はほっとした。
 コウメエーの眠る穴は、 野犬に掘り返されないようにと深めに掘った。父と母で掘り進めた。すぐにスコップを置こうとする母に対して、 父はまだだめだと叱りつけた。父の気持ちはありがたかった。
「二人で川原に行って、 墓石にする大きな石を探しておいで」
 穴から這い上がった父は、 好子を見た。どうやら、 土を被せられるコウメエーを見せたくないらしく思われた。好子は妹の手を引っ張ってその場を離れた。しばらく行くと、 埋めてしまうには惜しいほどきれいだと、 父の声が背後でした。
 長い間、 日照りが続いていた川の水は、 地表に出た伏流水だったろう。帯のように細くなったせせらぎに、 満月の光が反射してきらきらと輝いていた。堤防を横切ったその向こうに稜線が黒い影となって迫っていた。好子は涙を堪えて大きな石を探した。何度も手にしていた石を放り投げては、 もう一回り大き目の石に手を伸ばした。川原は広かった。行動は尽きることなく、 幾度石を拾っては捨てただろうか……。もうそろそろ行こうよと妹に言われるまで、 好子は石を拾い続けていた。
 戻った好子に、 盛り上がった土の上を足で踏んで馴らしていた父は笑いながら言った。
「おお、 大きな石やのう、 ようこんな石さげてこれたのう」
父は好子の手から石を受け取ると、 ここがコウメエーの眠っている頭の上あたりだと言いながら石を置いた。
 チビとの別れも、 やはり予期しなかったときにやって来た。厳しい冬が過ぎて、 野山には新しい草花がここかしこに咲き乱れていた。
「好子ちゃん、 メエーちゃんがな……」
 学校帰りの途中で出会った村人が、 早口で話しかけてきた。人がよいと評判の村人は、 何か切羽詰まったものを好子に感じさせはしたが、 初め何を言いたいのかわからなかった。村人は右手を好子の家の方角に高く指し示していた。しかし、 もともとつかえがちな村人の口調は、 焦れば焦るほど次の言葉が出てこなかった。
「あんなとこのお母ちゃんがな……、 メエーちゃんがな、 山羊買いに連れていかれてるよ。早はよう行って……」
 最後まで聞かないうちに好子はもう地面を蹴って走りはじめていた。しかし、 焦れば焦るほど、 自分でももどかしいばかりに前に進まなかった。走りながら、 母に対する狂おしい怒りが全身にふつふつと沸き起こっていた。命ある全てのものに、 慈しみを持てない性格の母に、 今までそういう懸念を抱かなかったのは迂闊だったかも知れない。
 母は山羊小屋の前にいた。チビのいた部屋は空っぽだった。
「チビはどこや」
 母は、 肩を大きく上下に波打たせて、 荒い呼吸をする好子を冷ややかな視線で見つめて無言だった。
「早く言え、 チビをどこにやったんや」
 母はやはり応えようとはしなかった。
「鬼ばばあ、 おまえなんか死ね!」
 好子はあらんばかりの力で、 持っていた鞄を母親に向かって投げつけていた。
「痛いなぁ、 この子は親に向かってなんていうことをするんや」
「何が親のもんか、 この鬼おんな……」
「あの山羊は死んだほうが幸せなんよ」
「ふだけたことを言うな、 ちゃんと薬のんで、 歩けたほうが幸せだったのに、 それさえもしてやらなかった鬼ばばあが……」
 近くの田圃で働く農婦が仕事の手を止め、 立ち上がって二人の争いに視線を投げているのが見えた。農婦は悲痛な表情だった。好子と目が合うと、 彼女は無言のまま右手を高く指し示した。チビの連れて行かれた方角を教えてくれたに違いなかった。
 好子はまた走り始めていた。迂回するように伸びる道路を過ぎて、 石垣で囲ってある本家の塀の角を曲がった。そこからは、 直線の道が長く続いていて、 ずっと先まで見渡せた。
 チビはがっちりとした金網で編んだ籠に入れられて百五十メートルほど先にいた。山羊買いはこの辺でチビの話を聞いて、好子の家へ来たに違いなかった。オートバイにはもうエンジンがかかっていた。
「チビ……」
 チビは狭い籠の中で、名前を呼ぶよりも先に、あの大きな耳で好子の足音を聞き分けて振り向いていた。しかし、いつもなら、好子の呼びかけに鳴き声をあげて返事するのに、首一つ動かさなかった。堤防で猟犬に襲われたときには、震え上がって好子の背後に隠れたくせに、知らない男の籠に入れられて、好子の前から連れ去られようとしているのに、ただ好子のほうをじっと見ているだけだった。生まれてすぐに好子の傍にやって来てから、好子との間には、分かちがたい絆が結ばれているはずなのに、入れられている窮屈な籠から出たいという素振りさえしなかった。好子は泣きながら叫んだ。
「チビ……、待ってくれ」
 椅子に腰かけていた男は、ハンドルを持ったまま振り向いた。しかし、男は好子を見て吊り上がった目を一瞬こわばらせると慌てて、オートバイを発進させた。好子までの距離があと二十メートルほどだった。
 長閑な田園風景の中を、農道はどこまでも一直線に続いていた。見る間にスピードを増して遠ざかっていくオートバイの荷台から、チビはずっと好子の方に視線を投げたまま、ずんずんと小さくなっていった。
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