愛しき日々 (久七 龍治)

 
  愛しき日々
 
山羊と少女の愛を描いたおとぎ話のような実話です。
 
あなたも、少女と山羊の別れには涙をこえることができないことでしょう。
久七 龍治
 
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 小高い山腹にある母の実家を出て二十分ほど歩くと、 村人が大井と呼んでいる山岳に辿り着いた。甲高い百舌の声がこだましている山道を、 山羊を連れて好子は左に折れた。
愛しき日々  坂を登りきると、 普段人気のないところで、 土木作業員が六人ほど腰を下ろしていた。大きく西に傾いた太陽が、 山間に陰を落としていて、 男たちのいる場所は陽だまり一つなかった。道端に一列に並んで休んでいる彼らは、 見るからに逞しく、 激しい労働で鍛え上げられた肉体は、 どこかしら荒くれた感じがした。夜道ならば、 女が避けて通りそうな男たちの前を、 山羊は駆け足になって通り過ぎた。母の実家を出てから、 幾人かの見知らぬ農民に出会ったけれど、 山羊がこういう行動をしたのは初めてだった。彼らの前を過ぎると、 すぐに元の歩調に戻ったところをみれば、 きっと怖いという印象を持ったのだろう。
 山道はやがて川に沿って続く平坦な道に変わった。崖のようになっている左側から、 富田川の緩やかな水音が聞こえた。車一台がやっと通れる狭い一本道は、 二キロ先で県道に交わっている。迷うことはないのだが、 行き先も知らないまま山羊は、 好子の一メートルほど先を歩いていた。好物のやわらかい草があっても、 口をもっていかなかった。ついさっきまで、 母の実家で飼われていたとはいえ、 もともと好子の家で生まれた山羊だけに、 甘えた態度も見せず、 無表情のまま黙々と歩き続けられると、 コウメエーはもう私のことを忘れたのかと好子は不安になった。
 山道を過ぎて堤防にさしかかると、 山おろしが吹き抜けていた。田園風景が横たわる村の外れに好子の家が小さく見えた。
(戻って来たコウメエーを見て、 お父ちゃんは、 なんて言うやろう)
 自分の家で飼っていた山羊が死んだからといって、 一度やったものを連れ戻すとは、 と怒っていた父親の気持ちが、 わからないわけではなかった。しかし、 まともな食事もできない戦後十年の時代に、 乳を出す山羊は重宝なのだ。山羊の糞尿の染み込んだ寝床の藁は、 堆肥としても貴重である。良質の堆肥がないとなれば、 農業の収穫にも支障をきたすことは誰だって知っている。母の実家が気を使ってか、 ただでもらったものだから返すと言ってくれたのである。実家の方は牛も飼っていて、 山羊の堆肥などあてにする必要もないのかも知れないが、 もうすっかり懐いてしまっている山羊を手放すのはつらかったろう。
 コウメエーの母親がまだ生きていた頃に、 一度だけコウメエーは好子の家に連れられて来たことがある。しかし、 離れて一年半も経つと、 お互いに親子であることを忘れてしまっていた。安易な気持ちで一夜の宿に同じ小屋に入れたが、 二匹は前足をあげて立ちあがると、 狭い部屋の内で目をつり上げ、 幾度となく激しく頭をぶつけ合った。人間が仲裁に入っても、 二匹の本能は充分に発揮されて争いはおさまらず、 とうとうコウメエーは、 野犬がうろうろしている危険な小屋の外に繋がれて、 一夜を過ごすはめになったのである。
 家に着くと、 好子は山羊をすぐに小屋に入れた。二時間近く歩いたためか、 山羊はたちまち足を折り、 腹を下にして、 入り口に尻を向けたまま床に伏せてしまった。しみ込んだ母親の匂いは、 新しく藁を換えたとはいえ、 拭えるものではなかった。しかし、 山羊にとって、 相手の姿が見えないのならどうでもよいのかも知れなかった。
 好子は午前中に刈っておいた草を籠からとって、 小屋の内に入れた。深呼吸のように大きく波打っていた腹が、 一瞬止まったように見えたが、 山羊は首一つ動かさなかった。戸口に立ってしばらく様子を窺っていたが、 同じだった。コウメエーと名前を呼んでみた。やはり、 呼吸が少しの間止まったように見えたが、 気のせいかもしれなかった。まったく自分を無視してしまっているコウメエーに、 好子は大きな失望を抱いた。人間に飼われるほとんどの動物は、 飼い主がいつやって来ても分かるように、 入り口の方に顔を向けて床に伏せることを十歳になった好子は知っていた。住み慣れた環境から、 無理やりここに連れてこられた山羊にしてみれば当然のことかも知れないが、 母の実家にもらわれていく前、 自分に懐いて離れなかった子山羊時代のコウメエーを知っているだけに、 この態度は信じられなかった。好子は悲しい思いで入り口の鍵をかけ、 山羊小屋をあとにした。
 翌朝、 布団から抜け出ると、 好子はまた山羊小屋に出向いていった。山羊の様子が気になってしかたがなかった。
 寝ていたコウメエーは人の気配に、 背中に回していた首をもたげた。瞼を半分ほど開けて好子を見た目が、 疎ましいというばかりだった。心弾んで山羊小屋にやって来ただけに、 こういう態度はひどく好子を落胆させた。コウメエーは好子に何の興味もないらしく、 すぐに首を背中に戻した。夜が明けたばかりの室内は薄暗く、 冷え冷えとした空気が漂っていた。新しい環境に馴染めないまま、 向こうむきに寝ている後ろ姿がいやに孤独に見えた。夜に与えた餌がなくなっていたので、 草を持って小屋の内に入った。体でもさすって慰めてやろう……、 そんな気持ちだった。
 山羊は部屋に入った好子に気づくと、 急に体を起こして立ち上がった。見る間に目を吊り上げ、 首を伸ばし、 怒りの表情を露にした。コウメエーは少しずつ足を速めて、 棒立ちになっている好子の足の付け根に、 二度、 三度と頭突きを食らわした。角が生えてないから身の危険はないのだが思いきりやられて、 彼女はあまりの痛さに手にした草を放り投げ、 慌てて戸口に逃れた。
 小屋の外へ一歩踏み出し、 後ろを振り返ると、 コウメエーは頭をぐっと下げて、 顎を引いたまま、 逃げる好子のすぐ後ろまで迫っていた。またもや頭突きを食らわそうとする構えなのだ。恐怖のあまり、 わぁーと声が出たが、 すばやく戸を閉めることができた。外に出ると、 吊り上がっていた目は下がり、 コウメエーは急に穏やかな顔つきに変わった。
 家族で朝食を食べながらも、 いやな山羊だという思いは拭えなかった。友達のように遊べると思っていただけに、 これからあんな山羊の世話をしていかなければならないのかと考えると、 幼い好子はやりきれなかった。
「お父ちゃん、 メエーちゃんに頭突き食らわされたよ。小さい頃と違って、 あいつ生意気になったよ」
 昨日、 仕事から帰った父親の孫一は、 戻ってきた山羊を見ても、 もう何も言わなかった。
「メエーちゃんはのう、 かわいがってくれた向こうの人たちのことが忘れられへんのや。誰も知った人のいない所に連れて来られて、 さびしいてたまれへんのや。好子と仲ようなるのには、 まだだいぶ時間がかかるんやで。それまでやさしゅう世話してやりよし。ええな」
 柱時計が七時の時報を打ち、 食事の終わった父親は立ち上がった。サラリーマンの孫一は、 自転車で一時間余りかけて会社に通っていた。海岸線を走るためか、 自転車はすぐに錆びてしまい、 二年もてばいいほうだった。
(お父ちゃんはああ言ったけど、 コウメエーはいつになったら私に懐いてくれるんやろう……)
 学校が終わってから夕方の草刈りに出たら、 初冬の上空を茜色に染まった雲が南の方角にゆっくりと流れていた。黄土色に変わりつつある堤防の上を、 昨日歩いた斜面とは反対側の道を辿った。少しも懐こうとしない山羊を相手にして、 青草を求めて歩くことは好子にしてみれば疎ましかった。そのうえ一生懸命に青草を刈って与えても、 コウメエーはその草の中から自分の好みの草だけを選り出して食べ、 気に入らない草は足で踏みつけて、 口にすることはなかった。自分から世話をすることをかって出て、 コウメエーをもらい受けただけに、 好子は今さら嫌だとも言えなかった。
 二か月近く経っても、 コウメエーは一向に懐かなかった。どこまでも反抗的な態度に出会うと、 もともとこういう嫌な性格だから、 母の実家の方も簡単に手放したのでは、 と疑いの目を向けたくなる。山羊に対する愛情などまったく湧いてこないのは、 世話をするほうも、 されるほうもお互いが哀れだった。肉体的にはきつくても、 百姓仕事のほうが好子には性に合っているように思えてならなかった。
「この山羊はいつまでも慣れんのう。しかし、 もう少し我慢してごらん。四月には子山羊が生まれる。子山羊が生まれれば、 メエーちゃんもきっと変わるから」
 孫一は、 そういって滅入っている好子を慰めた。

 やっと春になった。農道には、 れんげ草の花が咲き誇っていた。少し歩調を速めれば、 汗ばむほどの陽気で、 南国の田園風景はもうすっかり初夏の光に溢れているように思われた。
 好子は学校からの道を急いで駆けながら、 最後に桜の花の散り敷いた門をくぐった。期待に胸ふくらませて山羊小屋を覗くと、 今日あたりだろうと孫一が出かけに言っていたことが的中していて、 やはり子山羊が一匹生まれていた。
 生まれてから、 まだあまり時間が経っていないのか、 毛が濡れていて立つこともできなかった。長い耳も付け根のところから垂れ下がっていた。コウメエーは立ったまま子山羊を舐めては、 頻りに、 ウフッ、 ウフッと、 優しい含み声で子山羊に語りかけた。何を話しているのかわからなかったが、 母親の愛情が伝わってくる、 静かで安らぎの感じられる含み声に聞こえた。
 床に腹をつけている子山羊が、 語りかける母親の方を見ないのが不思議に思われた。どうやら子山羊は、 母親に甘えるより、 生まれて初めて見る形の変わった人間のほうに興味があるらしい。山羊小屋からは、 見渡す限りの田園風景が眺められた。子山羊は風になびく草木や、 立ち働く遠くの人間、 あるいは脇にいる自分と同じ姿をした母親よりも、 ただ小屋に顔を近づけ、 食い入るように見つめている好子とその脇にいる妹ばかりに視線を注いだ。
 濡れている毛が少しずつ乾いてくると、 やがて子山羊は、 四つ足を踏んばって立ち上がった。しかし、 二秒も立つことができなかった。すぐに手足に小刻みな震えがきて、 床に体ごと倒れてしまった。何度倒れても藁の上だから、 それほど痛くはない。コウメエーは、 倒れ込んだ子山羊の背中を、 口で下から持ち上げるふうにしながら突いた。さあ、 もう一度やってごらんと励ましているように見えた。
 一時間もしないうちに、 子山羊は覚束ないながらも歩けるようになった。乳を飲むのかと思っていたら、 よたつきながら、 好子の傍にやって来た。木の柵の間から差し出している指に鼻を近づけた。それから好子と妹の顔をしげしげと眺めた。
「やあ、 メエーちゃん」
 好子は、 恐怖心を抱かせないようにやさしく話しかけた。
 しかし、 なんてかわいいのだろう……、 動く白いぬいぐるみだ。見つめているだけで、 平和な満たされた思いと、 言いようのない幸福感を感じた。少しも心開かないコウメエーのために、 草が枯れ、 黄土色にくすんだ野原や田の畦を、 青草を求めて三時間近くかけてくまなく歩いた厳しい冬のことも、 これで報われる気がした。
 子山羊の背後から、 コウメエーのウフッ、 ウフッというやさしい含み声が聞こえた。さっきと同じ語り方なのに、 子山羊は途端に好子から離れて母親に近づいた。母親の下腹に口を近づけ、 ぱんぱんに張った乳首に口をもっていった。しかし、 子山羊からすれば乳房は高い位置にあった。口先を突き出し、 首を伸ばして飲もうとがんばるのだが、 あと少しのところで乳首に届かなかった。子山羊は幾度も足場を変えた。伸び上がるようにしてやっと乳首を含むと、 目を細めて乳を吸った。口の中で唾液と絡み合って、 粘っこい音が洩れた。コウメエーは、 首を後ろに回して、 子山羊を見つめていた。やはりウフッ、 ウフッとやさしく囁きながら、 嬉しいのか、 短い尻尾を頻りに振った。
 子山羊は幸いにして雌だった。骨が固まるまでに時間がかかるから、 一週間は決して触れてはいけないと父親から言われたことを好子は忠実に守った。母の実家のことが忘れられないコウメエーとは違い、 子山羊は真っ白な心のままで、 好子の愛に接するだろう……。子山羊の反応が楽しみだった。
 一週間目の夕方、 好子は山羊小屋の戸を初めて大きく開けた。それから戸口にかがんで両手を突き出し、 子山羊を誘った。子山羊はすぐにやって来て、 差し出した指に鼻を近づけ、 匂いを嗅いだ。頭から下へと体を撫でると、 子山羊独特の柔らかい毛並みが、 ビロードのようにすべすべしていた。
 好子は手を前に突き出したまま、 一歩二歩と後退した。それと入れ替えに、 部屋の奥の方で我が子の様子を窺っていたコウメエーが、 すぐに戸口までやってくるのが見えた。コウメエーは、 好子が子山羊から離れるのを待ち構えていたように思われた。子山羊ばかりに気をとられて今まで気づかなかったが、 耳がピーンと立ち、 目が吊り上がり、 明らかに怒りの表情をしていた。
 コウメエーは前足を高く挙げたかと思うと、 部屋から出ていこうとしている子山羊の背中へ、 思い切り振り下ろした。好子に懐いていく我が子が許せないらしく思われた。叩かれて、 子山羊はよろけて藁の上に倒れ込んだが、 再び立ち上がると、 今度は少しも躊躇しなかった。子山羊は、 母親の制止を振り切って部屋の外に出た。コウメエーは追って来なかった。
 狭い部屋の中から人間の傍に来て、 子山羊はむしろ快活だった。初めて土の上を歩くのが楽しくて仕方ないようだ。妹も一緒にいるのだが、 どういうわけか、 好子の後ばかり追って歩いた。胸に抱いても少しも嫌がらなかった。頭を撫でてみたが、 気にかかっている角も生えていない。体のわりには不釣り合いな大きい耳もきちっと伸び、 ピンク色の鼻先もしっとりしていて健康そのものだった。
 夢中で遊んでいた子山羊が、 突然好子を見つめたまま動かなくなった。不思議に思って見ていると、 ぴちょぴちょと音がした。子山羊は突っ立った姿勢のまま小便をしていた。たいてい山羊は、 足にかからないように少し腰をかがめる。そんなことさえまだ知らない幼さが、 かえっていとおしかった。抱き上げたが、 濡れた足など少しも気にならなかった。また、 糞もしたが、 まだ草を食べられない子山羊の糞は小豆ほどの大きさで、 見た目にもやわらかく、 黄土色をしていた。
 好子たちが戯れていると、 猫のちょびが庭先に出てきた。ちょびは歩みを止め、 動き回る子山羊を大きく目を見開いた驚きの様子で眺めていた。子山羊もそれに気づくと、 立ち止まって自分と同じ四足の猫を見つめた。しかし、 生まれた日、 歩けるようになって好子の傍に来たように近寄っていこうとはしなかった。
 十五分ほどで遊びを打ち切り、 小屋に戻した。生まれてまだ一週間しか経っていない子山羊の体力を考えると、 これ以上の遊びは控えなければならなかった。部屋に帰っていく子山羊を、 コウメエーは戸口まで来て出迎えた。コウメエーは先ほどのことをまだ許してはいなかったのか、 それとも別な意味があるのか、 子山羊に対して目を吊り上げると、 出ていこうとしたときと同じように、 前足を振り挙げて思い切り背中を叩いた。
 次の日は日曜日で、 仕事が休みの父親の孫一が、 子山羊と遊んでいる好子たちのところへコウメエーを連れてやって来た。子山羊は母親の傍には行きたがらず、 やはり好子の後ばかりついて歩いた。自分を無視している子山羊に対して、 しかしコウメエーは昨日と違って、 無言のまま細めたやさしい眼差しで我が子を追っていた。あの愛情溢れる含み声はまったく発しなかったが、 その顔面からは、 母として言いようのない満たされた思いでいることが好子にも伝わってきた。コウメエーがこの家に来て初めて見せる穏やかな表情だった。好子にもなぜか好意的で、 近づいても目を吊り上げたりしなかった。我が子を相手に遊んでくれることが嬉しいと解釈するには、 昨日子山羊が外に出ようとしたとき、 背中を思い切り叩いて制止したことが不思議だった。それとも心を開かなければ、 自分だけ仲間はずれになるとでも悟ったのだろうか……。
 大きく西に傾いた太陽が、 新緑の山々に陰を落としていた。風のまったくない夕方、 好子はやっと家族の一員になれたコウメエーを見た思いがした。
 翌日、 好子はコウメエーを試す気持ちだった。思ったとおりコウメエーは好子に対する態度をガラリと変えていた。好子が小屋の中に入っても、 目を吊り上げなかった。小屋の中で子山羊を抱き上げることも許してくれた。子山羊を撫でた後、 コウメエーの首筋を撫でると目を細めて心地よさそうな表情になった。母の実家から無理につれて来たが、 反抗的な山羊の態度に、 自分でも気づかないうちに好子自身も壁をつくっていたのかも知れなかった。好子は湧き上がってくる嬉しさを噛みしめながら、 コウメエーの名前を幾度も繰り返しては、 体を撫で続けた。
 次の日から、 山羊を連れて夕方の散歩に出た。子山羊を抱いた好子が先頭に立ち、 次にコウメエーが続き、 その後ろを妹が歩いた。農道には、 春になって吹き出した山羊の好む柔らかい草が、 四日前に降った雨に潤って、 道端の至るところで息づいていた。刈ってきて与える草の中から、 コウメエーが選り出して食べる草ばかりだった。好子は美味しそうな草を前にして歩みを止めたが、 コウメエーは口を近づけることはせず、 前方の山々におっとりした視線を投げたままだった。
 道を突き抜けて堤防まで来ると、 抱いていた子山羊を下ろした。環境が違うせいなのか、 庭先で遊ぶように子山羊は快活ではなかった。それどころか、 地面に下ろされて不満だというばかりに、 恨みのこもった表情で好子を見上げた。どうも子山羊は、 甘えん坊で内弁慶らしかった。
 堤防を横切って鉄橋がかかっていた。山羊はどういうわけか汽車をとても恐れた。乗り物と見るのではなく、 自分たちを襲う大きな怪物とでも解釈するのか、 あるいは黒い色とか煙突から出る煙を怖がるのか、 好子にはわからなかった。家の百五十メートルほど先に線路が走っていたが、 庭先から見る汽車は一向に平気なくせに、 それ以外のところではひどく脅え、 必ず人間の傍に走り寄ってきた。とくに鉄橋を渡る汽車には、 異常なほどの反応を示した。
 鉄橋は風とか太陽光線に熱せられて、 ときどきゴトンという音がした。しかし、 汽車が近づいてくる音は、 自然の織り成す音色とは微妙に違って、 ほんの微かに重苦しい響きがあった。よほど聞き慣れた人間でないと、 二つの音の違いを捉えることはできないだろう。過去に友達と遊んでいるとき、 好子はこの重苦しい音を聞いて、 もうすぐ汽車が来ると言ったことがある。友達は不思議がった。長く伸びる線路のどこにも汽車など見えてはいないのだ。しかしはるか遠くの地上の振動にさえ鉄橋は反応していて、 好子の言ったとおり、 それから三分近くして、 汽車が山のトンネルを抜けて通過していった。だが、 この音の違いを好子はすべて聞き分けたわけではなかった。なぜなら、 幾重にも連なる山麓を走ってくる汽車にしか、 鉄橋は重苦しい音を立てなかったからである。川原などで遊んでいるときなど、 田圃を横切って走ってくる汽車は、 地質の違いなのか突然現れて通過していくという感じがした。
 野性の本能なのか、 山羊はこの音の違いを間違いなく聞き分けた。コウメエーは、 汽車の立てる音には長い耳を立て、 ひどく脅えた表情で大きく見開いた目をきょろつかせた。だが、 見渡す限りの田園風景があるだけで、 汽車など見えはしない。遠くの振動をとらえて鳴った音は、 三十秒近く間があいて次の音が鳴る。汽車が鉄橋に近づくにしたがって音の間隔が狭まり、 かつ大きくなる。コウメエーはその間、 見えない相手にやたらと恐怖心をかき立てられているように見えた。しまいには首と目だけではすまなくなる。四つ足を頻りに動かして足踏み状態になり、 体までが震えだした。しかし、 姿の見えない敵に対しては、 どの方角に逃げてよいのかわからないのだろう。
 ポッと汽笛が聞こえた。どうやら汽車がトンネルを抜けたようだった。トンネルを抜ければ、 鉄橋までの距離は五百メートルほどだった。轟然となった鉄橋に、 コウメエーはもう堪えきれないらしかった。メェーと鳴きながら、 好子の傍に走り寄って来た。好子は恐怖心の固まりになっているコウメエーの頭を、 着ている上着のボタンを外して、 自分の脇腹に入れて覆ってやった。近づいて来る敵に対して、 頭隠して尻隠さずだけれど、 そうすることによって、 コウメエーは途端に落ち着くのだった。汽車が通り過ぎて頭を出したコウメエーは、 少しずつ遠ざかっていく汽車をじっと見つめているのが常だった。
 子山羊が草を口にするようになると、 好子は親子を引き離した。いつまでも子山羊に乳を吸われっぱなしというわけにはいかなかった。乳絞りは朝と夕方の二度で、 四月から九月の半ば頃まで続くのである。好子は眠たい目をこすりながら布団から抜け出すと、 妹に後ろ足を持たせて乳をしぼった。コウメエーは、 豊富に乳が出た。作業の途中で乳の出が悪くなると、 好子は手の甲で乳房を突き上げた。子山羊が乳房をつつくと、 萎えていた乳首もぱんぱんに張ってくる。その母性本能を人間が利用するのである。新緑の季節を迎えて、 刈る草には苦労することはなくなったが、 しぼったばかりの乳に、 大さじ二杯ほどの砂糖を入れて沸かし、 朝夕の食卓に出すのが新たに加わった好子の仕事だった。家族五人が茶碗に二杯ずつ飲んでも、 乳はまだ残った。
 好子の目に、 草を食べ始めた子山羊は急に逞しくなったように感じられた。糞も黄土色からコウメエーと同じ黒色に変わった。自分の足で歩く楽しさを知った子山羊は、 いつも好子の後ろばかりついて歩いた。好子が走れば一緒に走り、 擦り寄って来ては、 体を撫でてもらうことや、 かまってもらうことを期待した。子山羊も自分が好子に愛されていることは充分知っていたので、 無視されるのをとても嫌がった。かまってもらえないとき、 子山羊は自分のほうから好子にしかけてくる。そういうときの子山羊は、 一緒に遊ぼうよと言わんばかりに前足を挙げて、 好子の体を軽く叩いた。好子は続けて知らん振りをする。子山羊が背中を叩く力は少しずつ強くなる。それでもまだ無視を続ければ、 頭突きを食らうか、 後ろの二本足で飛躍しながら、 背中を向けて座っている好子の体に覆い被さってくる。
「こら、 何するんや!」
 振り向けば子山羊はかまってくれたことが嬉しくてたまらないらしく、 兎のように飛び跳ねながら庭を一周して好子のもとに戻ってくるのだった。
 好子は、 なるべく一緒に行動できるように考えながらコウメエー親子を連れて歩いた。幼いときから、 人間と一緒に行動していれば、 子山羊にとって人間と共に歩くことは当たり前であり、 置いてきぼりを食わされることは納得できないだろう。だが、 どんなに子山羊が一緒に行きたいとせがんでも、 ただ一つ、 どうしても連れていかれない場所があった。学校にだけは連れていけなかった。
 六月の季節を迎え、 田圃は緑一色に変わっていた。植えられてまだ日が浅い稲が風に吹かれて揺れながら、 サラサラと軽やかな音を立てていた。その南風と稲の音を突き破って、 置いてきぼりを食わされた子山羊の悲痛にも似た声が、 学校に行く道すがら聞こえてくる。子山羊は、 大木の松が生えている八百メートルほど先まで、 途切れることなく鳴き続けていた。鳴き叫ぶことによって、 好子が迎えに来てくれるとでも思っているのかも知れなかった。子山羊の視力はとてもよくて、 自分をかわいがってくれる人間と、 同じように登校する児童とを間違えることは決してなかった。ある日の朝、 好子は松の木に隠れたのち、 少し歩みを止め、 子山羊の声に耳を澄ませたけれど、 稲が風に揺れるざわめきばかりが聞こえるだけだった。好子の姿が見えなくなって、 子山羊はとうとう諦めたらしかった。こうして鳴き叫ぶ子山羊もかわいそうだが、 近くの田圃で働く人たちから、 メェーメェー鳴いてうるさいなどと言われだした。好子は登校するとき、 子山羊に気づかれないように山羊小屋を避けて、 そっと家を出るようになった。
 子山羊には、 チビという名前がついていた。妹がつけた名前だった。チビも自分の名前はわかっていて、 たとえ好子と離れて遠くにいようと、 チビと呼ばれるだけで走り寄ってくるのだった。
 コウメエー親子は好子たちに甘えるけれども、 反面、 好子たちを助けることも、 慰めることもできた。決して学習によって覚えたわけではなかった。状況に応じて自分の判断だけでそれをやってのけた。
 緑の絨毯を敷きつめたような田圃にも、 農薬を散布する時期がやって来た。山羊の好む草も、 この季節になると、 農道では刈ることができなかった。風に吹かれた農薬が道端の草に振りかかっていることは充分考えられた。
 ある日、 好子は母親から畑から切り出した野菜を家まで運ぶように言いつけられた。リヤカーを使ってやる仕事は、 前で好子がリヤカーを引き、 妹が途中の荷物の落下に注意しながら後ろから押すのだった。荷を積み終えると一緒にいて、 荷積みの邪魔になっていた子山羊の引き綱をリヤカーの梶棒にくくりつけた。こうすれば、 農薬のかかった草に口を近づけることをせず、 子山羊は好子と一緒にリヤカーについて来ると思われた。
「それ、 出発だぞ」
 後ろから押す妹に声をかけた。するとどうだろう。ただ、 邪魔になるだけの存在でしかないと思っていた子山羊が、 かけ声を聞いた途端に先頭に立って力いっぱいリヤカーを曳きはじめたのである。好子は一瞬、 自分の目を疑い、 動物を擬人化しているおとぎ話の主人公に、 自らがなったような感覚におちいった。先頭に立つ子山羊は、 先ほどまでの穏やかな表情が消えていた。厳しい眼でぐっと前のめりになりながら首を地面に近づけ、 一歩一歩と前進していく。人間の言葉をどうして理解できたのだろう。いや、 言葉を理解したのではなく、 その場の状況判断でやってのけたのかもしれなかった。
 子山羊は力を抜くということができず、 自分の持てる力を出し切っているように見受けられた。しかし、 幼さがかえってあだになり、 引き綱がやわらかい首に食い込んで、 呼吸するたびにヒィーヒィーと喉が鳴った。そして子山羊は苦しそうな息の下からときどきはげしく咳きこんだ。それでも子山羊は足を踏んばって、 前へ前へと進み続けた。
 いくら死にものぐるいで頑張ったとしても、 生まれてまだ三か月しか経たない子山羊の力など、 どれほどの助けにもなりはしない。しかし、 いつも自分をかわいがってくれる人間の助けに子山羊はなりたいのだろう。牛や馬のように鞭を振り下ろして一生懸命に曳けと強要しているわけではなかったし、 人間のように学習によってそれを学んだわけでもないのだ。前を行く子山羊に、 好子は自分には解らない動物の未知なる能力を見る思いがした。
 途中で農婦に出会った。農婦はリヤカーを曳いていく好子たちに道を開けてから歩みを止めた。
「まぁー、 なんていう山羊なの、 まだ、 幼い子山羊だのに……、 感心やのう、 山羊がこんなことを……、 はぁー、 かわいいもんやのう」
 感心しながら目を細めた。好子は内心得意になった。
 家に着くと、 偉かったと言いながら子山羊の頭や首を撫でてやり、 好物のふかし芋を与えた。人間とは違って、 動物は急速に生育し、 その持てる力をまだ早い子どものうちに閉ざしてしまうのかもしれないけれど、 おそらく動物はこうあるべきだと人間が考えるよりも、 もっと高度な知能を持っているだろう。
 ある夜、 母親に叱られて、 好子は月明かりだけのさびしい外に締め出された。仕事に忙しいだけの母は、 時には躁急的でほんの些細なことにでも、 子どもを叱ったりした。手伝いをしなかったと言って叱られることが一番多かったけれど、 しかし、 クラスの中で好子ほど家の手伝いをする子はなかった。先生もよく理解していて、 宿題をやっていない子どもは教室の後ろに立っているように言いつけられたが、 好子だけには立たなくてもよいと言ってくれるほどだった。
 家から閉め出されると、 恐怖心と切なさでいっぱいになった。田圃の中の一軒家の周りは街灯一つなかった。昼間の心なごむ風景も、 明かりの失せた夜は、 お化けでも出そうな恐怖を抱かせた。空や山に目をやれば、 今にも火の玉が飛んできそうな気がしたし、 風に揺れる稲のざわめきは人の泣き声に聞こえてならなかった。一人でいることは恐ろしかった。そんな時、 好子はいつも山羊小屋に行った。
 足音さえ聞けば、 必ず起き上がって迎えてくれる山羊も、 いつもと勝手が違うためか、 好子を見てもなかなか近寄っては来なかった。突っ立ったままで、 部屋の奥の方から視線を投げている姿に、 なお切なさがこみ上げてきた。
 だが、 しばらくして、 コウメエーがゆっくりと歩み寄って来た。入り口に座り込んでいる好子に顔面を近づけると、 コウメエーはウフッ、 ウフッと優しい声で囁いた。月明かりの下で見るコウメエーは、 真っ黒な大きな瞳になっていて、 白い鹿に見えた。
「ウフッ、 ウフッ」
 口の周りに生えている子猫のような細い口髭が、 涙で濡れた好子の顔面を撫でていった。
「ウフッ、 ウフッ」
 この特徴のある含み声を好子は忘れてはいなかった。子山羊が生まれた日に、 体を舐めてやりながら、 優しく話しかけていた母親の声だった。初めはとまどって、 ただ見ているだけだったけれど、 コウメエーはやさしく好子を慰めてくれるのだった。些細なことで叱る自分の母と違って、 チビの親はなんてやさしいのだろう。好子はコウメエーの頭を両手で抱え込むと、 今度は声をあげて泣きじゃくった。
 コウメエーは母の実家からもらわれてきたとき、 なかなか新しい環境に馴染めなかった。好子にも反抗的で、 部屋の内に入ることも許さなかった。山羊の気持ちなどまったく無視して、 人間のエゴであっちに行ったり、 こっちに戻って来たりと好き勝手にされた。好子の愛を受け入れなかったのも、 今までかわいがってくれた母の実家の人たちのことが忘れられなかったのかも知れなかった。
 ペットとして一般的な犬や猫は、 人間に愛情豊かに育てられて、 懐いたり甘えたりするけれど、 反面悲しんでいる人間を慰めたりすることがあるだろうか。山羊は育て方ひとつで、 とてもいい仲間になれるのだけれど、 大概はまともに相手にもされず、 小屋の中で孤独に生きるのが一般的な山羊の生涯かもしれない。
 二匹に海を見せてやりたいと思って家を出た。川口から海に抜ける道を辿った。夏になれば防風林に蝉時雨が浴びるほどなのに、 六月の季節では何も聞こえず、 歩みを止めたら波の音だけが聞こえた。潮の香りを含んだ風が静かに木間を吹き抜けているばかりで、 人ひとりいなかった。野犬に襲われたときのことを考えて、 途中で大きめのじょうぶな小枝を一つ拾って妹に持たせた。
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