愛しき日々 (久七 龍治)

 
  愛しき日々
 
山羊と少女の愛を描いたおとぎ話のような実話です。
 
あなたも、少女と山羊の別れには涙をこえることができないことでしょう。
久七 龍治
 
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 松林の中は砂で覆われていたが、 浜は握り拳ほどの石が、 下に行くにしたがって小さくなり、 やがては砂利となって水際に続いていた。この浜辺は、 よく時代劇の撮影に使われて、 今までにもいろいろな俳優を見かけた。
 その昔、 竿一本で操られ、 筏を組んで富田川を下ってきた紀州の材木は、 この浜辺を起点に船で海を渡って全国に散っていった。海運の衰退とともに、 今度は漁業で賑わった浜も年々少なくなる漁獲量に採算がとれなくなり、 村人は海を捨てていた。夏の季節でない限り、 海に人の姿を見ることはほとんどなかった。ほんの少しの岩場と、 滅多に使用されない櫓こぎの舟が三隻、 それを引き揚げる器具があるばかりだった。たとえ二、 三百年溯ろうと、 違和感を感じさせるものは何もないような気がした。
 まだ陽は高いはずなのに、 太陽を遮った雲がコバルト色の海を不透明な濁った海に変えていた。砂利を敷き詰めた海岸線に打ち寄せる波は、 砂浜とは違って、 どことなく素朴で荒々しい感じがした。
 初めて海を目の前にして、 コウメエーは目を細め、 少し鼻先を持ち上げるようにして沖を見つめた。しかし、 打ち寄せる波に近づいていくことはしなかった。海面を渡ってきた風に、 ときどき鼻先をぴくつかせる様子を見ていると、 広大な海の耽美よりも、 潮の香りに酔っているように思えてならなかった。一方、 打ち寄せる波にきっと喜ぶだろうと思っていたチビは、 好子の期待に反して、 つまらなそうに沖を見つめるだけだった。
 帰り道は浜伝いに辿って、 堤防に抜けた。畑の中で鍬くわを使って畝あげをしている農夫がいて、 そのまだ向こうに、 河川敷の草場に猟犬を連れた男が歩いていた。しばらくしてバァーンという音が聞こえたので、 そのほうを見ると、 木に止まっていた二羽の烏が慌ただしく飛び立っていた。一羽は見る間に空中高くに舞い上がり、 松原の方に向かって飛んでいった。カアカアと悲鳴をあげて仲間を追う烏は、 たどたどしい羽音を立てていて、 なかなかうまく飛べなかった。焦って首だけが前へ前へと突き出ているように見え、 抜けた羽が一本空中を舞いながら落下してきた。傷を負った烏は、 空高く舞い上がると、 落ち着きを取り戻したのか、 今度は普通の飛び方で松原の方に向かった。飛ぶことに何の支障もないように思われた。「ちくしょう」 と男の声が聞こえた。怖いばかりの男に見えた。
 烏ばかりに気をとられていた好子は、 前方に視線を戻して仰天した。男の連れていた猟犬がいつの間にか堤防に上がってきて、 好子達の前に立ち塞がっていた。犬は明らかに山羊を狙っていた。コウメエーたちは、 今にも飛びかかってきそうに身がまえている犬に震えあがって、 好子たちの背後にぴたりと身を寄せた。
 妹は松原で拾って、 まだ捨てずにいた小枝を振り挙げ、 好子は鎌を持っている右手を振り挙げた。自分も逃げ出したい気持ちのはずなのに、 コウメエーたちのことを考えるとなぜだか勇気が出た。襲ってきたら鎌の先で突いてやろうと、 好子は犬の目だけに狙いを定めた。山羊から視線を外して、 犬は先頭に立っている好子ばかりを見ていた。好子はさあ来いと思うばかりだった。犬はなかなか次の行動に移らなかった。睨み合っている時間はきっと長かったろう。しかし、 好子は時の流れを感じなかった。
「チェス、 チェス」
 突然、 犬を呼ぶ声を聞いた。男が犬に気づいたようだった。犬は首だけを回して男と視線が合うと、 途端に身をひるがえして男のほうに駆けていった。堤防を駆け下りていく犬を見て、 男はもう背中を向けて歩きはじめていた。
「警察に言ってやるぞ、 おまえなんかどっかへ行ってしまえ」
 気のすまぬ妹はその背に向かって、 大声で罵倒を浴びせた。
 草以外で山羊の好物は、 ふかし芋や糠、 沢庵、 小麦粉でかたく練り上げた後、 油であげた煎餅などだった。とくに油で揚げた煎餅は大好物で、 最後には煎餅の入っていた紙袋までむしり取って食べた。だが、 人間の口にするものは、 魚のじゃこでも果物でもほとんど何でも食べた。好子は、 いつも給食のパンを山羊のために半分残して持って帰って与えた。食事が足りないでひもじくなれば、 好子はおひつにあるご飯を食べればよかった。周りが田圃ばかりの環境では、 山羊におにぎりを食べさせることは絶対しなかった。米の味を覚えれば、 稔った稲穂に口を持っていくことが充分考えられたからである。
 草を食べる山羊の口の中は、 人間のように滑らかではなく、 無数の長いトゲのような突起で覆われていた。突起はちょうどヤマアラシの毛のように見えた。この構造のためなのか、 山羊は茨でも平気で食べた。糠を食べた後は、 甘納豆のような黒い糞ではなくなり、 人間の糞と変わらない色で連なった形の糞をした。
 秋になった。チビも雌として初めての発情期を迎えた。猫などは春でも夏でも季節をわきまえず発情するが、 山羊の場合は、 秋から冬にかけて三週間ごとに発情して、 春になって子どもを生んだ。
 普段はおとなしいチビも発情すると、 じっとしていることができなかった。腹から絞り出すような声で長く尾を引くように鳴きながら、 狭い部屋の中をぐるぐると一日中回り続けた。好子が傍に行こうが、 その行動はやむことはなかった。鳴きながらときどき首を上下に動かしたりもした。歩き方も乱暴で藁を蹴るような歩き方だった。夕方、 藁の上はチビの歩いていた場所だけがドーナツ型にへこんでいた。一緒の部屋に入っているコウメエーは、 そんな我が子を部屋の隅によけてじっと眺めていた。
 一方コウメエーのほうは、 発情しても部屋の中で下を向いたままじっとしていた。この山羊は普段から性格もおっとりとしていた。村の他の山羊と比較しても、 人間に喩えれば、 どこかしら上品なお嬢さまのようであった。発情したときは、 いつもと向きを変え、 必ず入り口に尻を向けていた。好子が傍に行っても、 後ろを向いたままの姿勢は変わらなかった。部屋の奥の方にいて、 こちらに近寄って来ることもなかった。好子を無視したまま、 じっと立ち止まって下を向いている姿は、 突き上げてくる得体の知れないものを抑えているようにも見受けられた。鳴き方はチビと同じように長く尾を引いた。
 次の月にも親子は発情した。発情期はたった一日間で、 結局前回の発情で二匹とも子どもを宿さなかったことになる。
 村にいる雄山羊は一匹だけだった。コウメエーの母親は、 この雄山羊と契ってコウメエーを生んだ。したがって、 コウメエーは自分の父親と契ったことになる。そうして生まれたチビも、 また契る相手は自分の父親なのだった。山羊の体毛は白い毛で覆われているが、 堤防で草を食べている山羊たちを遠くから見たとき、 好子の家の山羊だけがずば抜けて白かった。ある村人からは、 風呂に入れているのかと問われたこともあったが、 好子自身、 山羊をどうやって風呂に入れればよいのか思いつかなかった。白い毛に混じって赤茶けた毛が生えている山羊もいた。そんな山羊を遠くから見ると、 薄汚れて見えるのかもしれなかった。しかし一番考えられることは、 同じ父親の遺伝子を重ねた結果、 コウメエー親子には劣性遺伝子が働いたとも言えなくもなかった。
 雄山羊は雌とは違って体毛も長かった。その体毛が汚れに汚れて、 山羊独特のひどい悪臭を放っていた。匂いは異なるが、 悪臭のひどさに喩えれば、 豚小屋から発散する匂いのように強烈だった。おそらく小屋に敷いている藁もあまり交換してもらえないで、 粗末で不潔な扱いを受けているのだろう。
 気性の荒そうな雄山羊の引き綱は鎖だった。草も刈って与えられるのではなく、 いつも堤防に繋がれて草を食べていた。人を見ればすぐに頭突きのかまえをするほど攻撃的で、 好子はこの山羊の傍を通るのさえ怖かった。
 晩秋の稜線が黒い影となって、 空の境界線にくっきりと浮かび上がって見える月の明るい夜だった。訪ねていく雄山羊の家はまだ七十メートルほど先だった。しかし、 その独特の臭いは風に乗って、 狭い農道を歩いていく好子たちのところまで強烈に臭っていた。
「ここで待っていよし」
 話をつけるため、 母親が一緒にいた好子たちを残していなくなった。二度目の発情ともなれば、 チビはこの雄山羊の匂いを覚えていた。チビは嬉しいのか、 母親がいなくなると、 俯いていた今までの態度をガラリと変えて、 頻りに後ろの二本足で立ち上がっては伸び上がり、 凭れかかるように自分の体を好子に預けて甘えるのだった。
 母親は、 五分ほどで戻って来た。話がついたらしく、 今度はチビだけを連れて雄山羊のところへ向かっていった。
 妹と二人きりになると風が急に冷たく感じられた。空を見上げると、 雲が流れていた。月は明るいのに、 いやにさびしい空の景色だった。一人でないせいか怖くはなかった。
 十五分ほどで母親に引かれて帰ってくるチビが見えた。傍に来てもチビは俯いたままで好子の方を見ようともしなかった。無視し続けるチビを見ていると、 さっきまで二本足で立ち上がって、 凭れかかって甘えていたことが嘘のようだった。体からは強烈な雄山羊の臭いがした。月明かりだけでははっきり判らなかったが、 体が雄山羊のおしっこでベタベタのような気がした。もし母親に引き綱を持つように言われたらどうしようと思うほど、 好子はこのときチビを不潔に感じた。
 いつも、 好子の後ろばかりついて歩いていたくせに、 チビは皆の先頭に立って来た道を戻りはじめた。灰色っぽく見える農道に、 月がそれぞれの淡い影をつくっていた。俯いたまま帰っていくチビは、 自分の影を追っているように見えた。
 翌日見るとチビの体は、 ところどころが薄茶色に汚れていた。雄山羊の色がそのままチビの体に撫でつけられたようだった。体からはまだ悪臭を発散させていた。昨夜、 帰り道でまったく好子を無視したあの態度はどこにいったのだろう。チビは傍にやって来て口を近づけると、 好子の指をしゃぶった。いつもなら首から体へと手がいくのだけれど、 好子は頭だけを撫でながら、 朝食用の草を投げ入れた。
 種つけ料は、 三百円だった。母が農閑期に土方に出て稼ぐ金が日当で二百九十円である。それでも、 母は一番の働き者で仲間の人より十円多く貰っているということだった。乳をしぼるために、 コウメエーとチビで六百円払ったことになる。決して簡単に出費できる金額ではなかったが、 とうとう今年は二匹とも子を宿さなかった。
 冬になると、 堤防や河川敷の草場が一面に黄土色に変わった。太陽の照りつける暑い夏は嫌だけど、 堤防は緑の草で覆われている。南国の冬は、 夏より過ごしやすいのだが、 牛のように藁や干し草を口にしないコウメエーたちの食糧を考えると、 好子にはつらい冬だった。
 母は庭の畑の全部に水菜を植えてくれた。人間が食べるのではなく、 山羊の食糧の補充のためだった。山羊は水菜があまり好きではなく、 野菜では高菜を好んで食べた。しかし、 高菜は水菜より作付面積からの収穫量は少ないのであまり植えられなかった。
 ある朝、 ふと外を見ると、 まだ少ししか収穫していない庭の畑の水菜の中に、 市場の仲買人が立っていた。道端には小型トラックが止まっている。仲買人は鎌を手にしていた。母の声が聞こえた。
「うちには山羊がいるもんで、 水菜は売れないんですよ」
 ニコニコ顔で話す仲買人とは違って、 母は困り切った表情をしていた。それから二人の間でどういう話し合いがなされたのだろう。仲買人は持っていた鎌で水菜をかたっぱしに切りはじめて、 トラックに積んでいった。
「メエーちゃんのために植えた水菜をなんであんな奴に売るんや」
 トラックが去った後、 畑には一株の水菜も残っていなかった。母はたった百円を手にして家の内に入ってきた。
「売らんて言うたけど、 承知しないんよ。あの人達に歯向こうたら、 仲間の人達に言いふらされて、 今度から市場でうちの野菜は安う買い叩かれるんよ。腹たつけど仕方ないんよ。しかし、 何思っているんや、 ただ同然にかっぱらっていって」
 仲買人は、 人の弱みにつけ込んだのかもしれなかった。水菜が欲しいのなら、 市場で堂々と競り落とせばよかったのだ。
「トラックいっぱいで恐らく千円にはなるだろうに……」
 的を射た母の推測だった。
 黄土色の堤防にも、 ところどころに青草があった。蓬、 ぎしぎし、 月見草などがそれである。これらは、 いずれも柔らかくて山羊の好む草であった。好子は青草を求めて、 田圃や畑の岸、 堤防、 河川敷の草場を歩き回った。時には籠いっぱいの草を求めて三時間近く歩く時もあった。
「あそこにもあるよ」
 妹が指さす先を見ると、 草べたこになった畑の中に、 青々としたぎしぎしが生えてあった。岸に生えてあるぎしぎしと違って、 見るからに柔らかく、 葉も大きく広がっていて、 山羊が喜びそうな色つやをしていた。ぎしぎしはたくさん生えていた。あの草を刈れたら、 籠いっぱいになって、 今日はこのまま家に帰ることができた。しかし畑は岸と違って、 他人の領域である。好き勝手に入るわけにはいかなかった。手入れをしない畑だからとて、 他人の領域に入って青草を求めれば、 しまいには他所の畑の野菜を刈って山羊の餌にしているとも言われかねなかった。
「残念だけど、 あれは刈ることはできへんのよ」
 喉から手が出るほど欲しいと思いながらも、 岸に佇んだままどうすることもできなかった。
 どうにか食糧を確保して堤防に上がると、 遠くの好子たちの姿を見つけて、 コウメエーたちが大声で鳴き出した。出かけに残っていた草を与えてきたので腹を空かして鳴いているのではなかった。コウメエーたちは声の限りを鳴きながら、 餌を刈ってくれる好子たちに感謝の意を表わし、 喜んでいるのだった。近くの田圃で働いている人からはうるさがられたけど、 好子の苦労が報われる幸せな一時だった。二匹は、 近頃では鳴き声だけではすまなくなり、 杉皮で葺いている屋根を食いちぎって丸い穴をあけ、 後ろの二本足で立ち上がっては、 かわりばんこに、 そこから顔まで出すようになった。穴は一匹がやっと頭を通せる大きさだった。コウメエーたちは何の支えもないまま、 二本足で屋根まで伸び上がって好子たちに顔を向けた。しかし、 もともと四つ足なのだから体力が続かない。無理な姿勢はしんどいと見えて、 すぐに頭を引っ込める。すると下で待っていたほうが、 また伸び上がって顔を出して泣き叫んだ。その繰り返しを好子たちが家の傍に戻るまでやり続けた。
「おぅーい、 メエーちゃん」  好子は歩きながら、 鎌を持っている右手を高く挙げて左右に大きく振り、 やはり大声で二匹に応えた。彼女は、 一歩一歩と近づいていきながら、 屋根から突き出したコウメエーたちの顔が、 微笑んでいるように見えてならなかった。
 山羊小屋の前で背負っていた籠を下ろし、 刈って来た草を与えた。戸口のところまで来てじっと待っているコウメエーとは違って、 必ずチビは前足の先で小屋の柵を、 太鼓を打つように叩きながら、 後ろの二本足だけで部屋の中を一周してから、 与えた草に口を近づけるのだった。
「あれじゃ雨漏りするのう、 前足で叩きまくっているから、 小屋も急にぼろぼろになってしもうた。建て直さなければいかんのう、 悪いことばかりする奴らじゃ」
 好子にしてみればかわいい仕種も、 孫一には頭の痛い金のかかることかもしれなかった。
 小屋の建て直しには、 人の手を借りずに、 冬休みを利用して父親と兄でやることになった。
「人間の住む家より山羊小屋の方が立派じゃのう、 わしも寝てみたいもんじゃわな」
 三日目の夕方に、 近所の人からからかわれるほど、 小屋は立派にでき上がった。屋根はトタンで、 近づくと新しい木の匂いがした。今までより少し大きめに建てたので、 広々とした感じがした。初日に自分たちの住んでいた小屋を壊され、 しょんぼりしていたコウメエーたちは、 入り口の戸を開けてやると、 さっそく、 何のためらいもなく駆け込むように内に入った。そして、 よっぽど嬉しいとみえて、 前足叩きをやらなかったコウメエーまでが後ろ足で立ち上がると、 チビと一緒になって部屋中を叩きまくって、 感謝の意を表わすのだった。
 好子は少し遅れて内に入った。二匹はとたんにおとなしくなり、 好子の傍にやって来た。換えたばかりの藁の上に足を伸ばして座ると、 両側にコウメエーとチビがぴたりと寄り添った。同じ目の高さになった顔に視線を投げながら、 下から抱え込むように首に腕を伸ばした。それだけで二匹は共に目を細めた。好子はゆっくりと両手を上下に撫で動かした。
「メエーちゃん嬉しいのう、 こんな頑丈な家なら少々叩こうが、 びくりともせんよねえ」
 甘えているのか、 体をぴたりとくっつけてくる二匹の体温を肌でじかに感じながら、 好子はいいようのない幸福にひたっていた。
 朝、 布団の中で、 破れた樋から流れ落ちる雨音を聞いた。昨夜北に向かってのぼっていた重層的な雨雲が思い返された。起き上がって布団をたたみ、 普段着に着替えた。卓袱台の脇の方に置いている籠の中から大きめの蒸かし芋を摘まみ上げると、 外に出て傘を拡げた。近づいていく足音だけで、 コウメエーたちは小屋の入り口まで来て好子を待っていた。寒いのか、 二匹とも毛が立っていた。内に入ると、 コウメエーが口先を好子に押しつけてきた。チビが甘えてこういう仕種をときどきするが、 コウメエーがしたことは今まで一度もなかった。不思議に思ったが、 口先を押しつけた跡を見てすぐに合点がいった。着替えたばかりの服が、 コウメエーの鼻水で光っていた。二匹は与えた芋をたちまちのうちに平らげた。いつもと変わらない旺盛な食欲からして何も心配いらないと思えた。
 しかし、 この二匹はいったいいつ寝るのだろう。一度本で読んだことがあるが、 山羊の睡眠時間は平均して三〜四時間ほどらしかった。野性の動物として生きていくには、 弱い立場のものは、 余り寝ていてはすぐに敵にやられてしまうだろうが、 八時間近く寝る自分と比較して、 好子はコウメエーたちをかわいそうに思ったものだった。
「何も心配要らへん、 メエーちゃんらはな、 好子が学校に行っている間に寝ているんや。好子がいなくなると部屋の奥のほうに行って、 首を背中に回してぐうぐう寝ている。そんな時は人が近づいても薄目を開けてちらっと見るだけでまた寝るんよ。三時頃になって、 今まで寝てた二匹が、 急に起き出してガサガサしだしたと思うたら、 それからしばらくしたらあんたが帰って来るのんや」
 二匹は、 あの大きな耳で好子の足音を聞き分けるらしかった。
 内に入って初めてわかったことだが、 雨をはじいて、 パラパラと音をたてるトタン屋根は意外にうるさかった。山羊小屋から外に出ると、 水はけの悪い門の前に大きな水たまりができていた。雨足は一向に衰える気配はなく、 地上から見上げると、 雨滴は回りながら落ちているように見えた。このままの調子で夕方まで止まなければ、 今日は草を刈りに行くのは無理なような気がした。
 さつま芋は、 貯蔵用の食糧としては、 とても貴重だった。草を刈りに行けない日は、 芋つぼからさつま芋を取り出し、 押し切り器で輪切りにして、 市場に出せないくず野菜と一緒に山羊に与えた。卵一個が十円している時代に、 さつま芋は市場に出しても四キロ二十円ほどで、 まったく馬鹿げた値段しかつかなかった。二匹はさつま芋なら蒸してなくとも喜んで食べたが、 一番好んださつま芋は、 油で揚げて少し塩をふりかけたものだった。
 また暑い夏が去り、 秋が来て、 それからコウメエー達の餌に困る冬を迎えて、 そしてまた春が巡ってきた。あっという間に一年が過ぎたように思えた。今まで妊娠しても一匹しか生まなかったコウメエーは、 この年の春に初めて二匹の子山羊を生んだ。陣痛が始まるとチビは小屋から出された。今年も妊娠しなかったチビは、 なぜ自分が外に出されるのかわからないらしく、 頻りと小屋の内に入りたがったけれど、 生まれた子山羊の姿を見ると、 今度は内に入ることをとても嫌がった。
 好子は中学生になった。毎日通う通学道は農協を過ぎる辺りから、 急に賑やかになる。この道は、 一時間に一本の割でバスが通り、 遠くから自転車で通学する生徒の列が頻りだった。でこぼこの農道から、 セメントのこの大通りに出ると、 好子の心は急に気ぜわしくなり、 落ち着かなかった。
 村にただ一軒ある酒屋の角を曲がると、 新しいことにすぐ手を出したがる叔父が、 耕運機を使って田圃を耕しているのが見えた。畦には三人の男が叔父の作業を見物していた。耕運機は静かな農村に大きな音を響かせていた。牛と人間とで三日はかかる仕事を三時間ほどでやりあげるらしかった。耕された土は、 砂のように細かく、 でき上がった畝はすぐに作付けができた。父が言っていたように、 好子の目にも、 牛や馬がいて長閑だった農村が大きく変わろうとしているのがわかった。
 村から獣医がいなくなったのはそれから間もなくだった。農民が競うように耕運機を手に入れていって、 獣医を必要とする家畜がいなくなったためだった。売られた牛は耕運機の支払代金の一部に充てられた。
 蚊が媒介する病気で、 チビの足が立たなくなったのは夏の初めだった。朝、 前足の右が覚束ないと思っていたら次の日には、 右足はもうチビの自由にはならなかった。
 布団から抜け出て、 山羊小屋に行った。好子の笑顔に、 コウメエーはいつものようにさっと立ち上がって戸口まで来た。毎日何気なく繰り返していた動作なのに、 チビは立ち上がるのにもどかしいほどにもたついた。気持ちばかりが焦るらしく首をやたらと振り動かした。ようようの思いで立ち上がったチビに、 事があまりにも早急すぎて、 これから起こりうる事態をまだ好子はのみ込めていなかった。チビはびっこをひくようにして、 三本足で歩いて戸口まで来たが、 与えた草を食べようとはしなかった。自由の利かなくなった右足をかばうためなのか、 斜めに首を傾けて好子を見つめた。いつものように甘えてこない態度にチビの悲しみが目の前に見える気がした。好子は驚いて、 内に入った。動かない足に触ると、 そこだけがいやに冷たく感じられた。右足を起こして、 他の足と同じように立たせた。餌に近づいていかないチビに、 草を手にとって口先にもっていった。チビは好子の手から少しずつ食べはじめた。頭から首にと優しく撫で下ろすと、 いつもと変わらない目の光に戻った。好子にはチビが気を使ったように見えた。
 だがチビの足は、 二日もすると今度は左の前足がやられた。それから三日の後には、 後ろ足の一本がだめになり、 二週間ほどかかって、 すべての足が動かなくなった。チビは自分では、 もう立ち上がることができなかった。
 立とうとして焦って動かしていた首は振らなくなり、 好子が近づくと四つ足を投げ出して横になったまま、 頭をもたげた。表情だけを見ていると別に苦痛ではないらしかったけれど、 好子の後ろばかり追っていた子山羊時代や、 リヤカーを引っ張って好子の力になってくれた健気さを思い返すと、 思わず切なさがこみ上げてきた。役場に問い合わせれば、 獣医の居場所ぐらい分かる筈である。母親に医者を呼んでくれるように頼んだ。
「あの山羊は乳も出さず、 何の役にも立たなんだ」
 薄情者の母親は、 もうこれ以上チビのために金は使いたくないと言って好子の願いを拒んだ。
 藁の上に投げ出している足に生き血を吸う蠅がとまった。チビは抵抗することもできなかった。扇いでやっていたうちわで叩くと、 腹わたと一緒に血が白い毛にへばりついた。
 四つ足を投げ出したまま、 草を食べている姿はたまらなかった。寝ている姿をなんとかしてやりたかった。妹に手伝わせてチビの体を持ち上げて起こし、 立っている状態にした。少しだけ支えてやれば、 どうにかそのままの姿勢を保つことができた。顔の表情を見ていても苦痛の影は見えなかった。
 三日もしたら、 支えがなくとも立っていられるようになった。考えもしなかった回復力だった。チビは歩きたいらしかった。だが、 前足叩きなどをして自由に動かせた右足は、 十センチ踏み出すのにも、 一分近くもかかった。
 左の前足が震えていた。今度は左足を出そうとしているらしかった。好子は小躍りしたい気持ちで、 一メートルほど後ずさって、 両手を前に突き出した。
「チビ、 ここまでおいで、 ここまで」
 チビは首を下げて自分の足下を見ていた。なかなか意志どおりにいかない足の代わりに瞼だけがぴくぴく動いた。一生懸命であることが傍目にもわかった。
 引きずるようにして左足は五センチも動いたろうか。首がさっと持ち上がったと思うと、 四本の足を棒のように伸ばしたままの状態で、 もんどりうって地面に倒れた。踏み固められたでこぼこ道は、 痛いはずなのに鳴き声一つあげなかった。すぐに抱き上げて元のようにまた立たせて、 強く打ったと思われる場所を撫でてやった。
 一歩踏み出しては倒れ、 また立ち上がらせる。そんな繰り返しだった。
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