愛しき日々

  絆 (小説)  他の小説も読む
 
山羊と少女の愛を描いたおとぎ話のような実話です。
あなたも、少女と山羊の別れには涙をこえることができないことでしょう。
久七 龍治
 


 小高い山腹にある母の実家を出て二十分ほど歩くと、 村人が大井と呼んでいる山岳に辿り着いた。甲高い百舌の声がこだましている山道を、 山羊を連れて好子は左に折れた。
愛しき日々  坂を登りきると、 普段人気のないところで、 土木作業員が六人ほど腰を下ろしていた。大きく西に傾いた太陽が、 山間に陰を落としていて、 男たちのいる場所は陽だまり一つなかった。道端に一列に並んで休んでいる彼らは、 見るからに逞しく、 激しい労働で鍛え上げられた肉体は、 どこかしら荒くれた感じがした。夜道ならば、 女が避けて通りそうな男たちの前を、 山羊は駆け足になって通り過ぎた。母の実家を出てから、 幾人かの見知らぬ農民に出会ったけれど、 山羊がこういう行動をしたのは初めてだった。彼らの前を過ぎると、 すぐに元の歩調に戻ったところをみれば、 きっと怖いという印象を持ったのだろう。
 山道はやがて川に沿って続く平坦な道に変わった。崖のようになっている左側から、 富田川の緩やかな水音が聞こえた。車一台がやっと通れる狭い一本道は、 二キロ先で県道に交わっている。迷うことはないのだが、 行き先も知らないまま山羊は、 好子の一メートルほど先を歩いていた。好物のやわらかい草があっても、 口をもっていかなかった。ついさっきまで、 母の実家で飼われていたとはいえ、 もともと好子の家で生まれた山羊だけに、 甘えた態度も見せず、 無表情のまま黙々と歩き続けられると、 コウメエーはもう私のことを忘れたのかと好子は不安になった。
 山道を過ぎて堤防にさしかかると、 山おろしが吹き抜けていた。田園風景が横たわる村の外れに好子の家が小さく見えた。
(戻って来たコウメエーを見て、 お父ちゃんは、 なんて言うやろう)
 自分の家で飼っていた山羊が死んだからといって、 一度やったものを連れ戻すとは、 と怒っていた父親の気持ちが、 わからないわけではなかった。しかし、 まともな食事もできない戦後十年の時代に、 乳を出す山羊は重宝なのだ。山羊の糞尿の染み込んだ寝床の藁は、 堆肥としても貴重である。良質の堆肥がないとなれば、 農業の収穫にも支障をきたすことは誰だって知っている。母の実家が気を使ってか、 ただでもらったものだから返すと言ってくれたのである。実家の方は牛も飼っていて、 山羊の堆肥などあてにする必要もないのかも知れないが、 もうすっかり懐いてしまっている山羊を手放すのはつらかったろう。
 コウメエーの母親がまだ生きていた頃に、 一度だけコウメエーは好子の家に連れられて来たことがある。しかし、 離れて一年半も経つと、 お互いに親子であることを忘れてしまっていた。安易な気持ちで一夜の宿に同じ小屋に入れたが、 二匹は前足をあげて立ちあがると、 狭い部屋の内で目をつり上げ、 幾度となく激しく頭をぶつけ合った。人間が仲裁に入っても、 二匹の本能は充分に発揮されて争いはおさまらず、 とうとうコウメエーは、 野犬がうろうろしている危険な小屋の外に繋がれて、 一夜を過ごすはめになったのである。
 家に着くと、 好子は山羊をすぐに小屋に入れた。二時間近く歩いたためか、 山羊はたちまち足を折り、 腹を下にして、 入り口に尻を向けたまま床に伏せてしまった。しみ込んだ母親の匂いは、 新しく藁を換えたとはいえ、 拭えるものではなかった。しかし、 山羊にとって、 相手の姿が見えないのならどうでもよいのかも知れなかった。
 好子は午前中に刈っておいた草を籠からとって、 小屋の内に入れた。深呼吸のように大きく波打っていた腹が、 一瞬止まったように見えたが、 山羊は首一つ動かさなかった。戸口に立ってしばらく様子を窺っていたが、 同じだった。コウメエーと名前を呼んでみた。やはり、 呼吸が少しの間止まったように見えたが、 気のせいかもしれなかった。まったく自分を無視してしまっているコウメエーに、 好子は大きな失望を抱いた。人間に飼われるほとんどの動物は、 飼い主がいつやって来ても分かるように、 入り口の方に顔を向けて床に伏せることを十歳になった好子は知っていた。住み慣れた環境から、 無理やりここに連れてこられた山羊にしてみれば当然のことかも知れないが、 母の実家にもらわれていく前、 自分に懐いて離れなかった子山羊時代のコウメエーを知っているだけに、 この態度は信じられなかった。好子は悲しい思いで入り口の鍵をかけ、 山羊小屋をあとにした。
 翌朝、 布団から抜け出ると、 好子はまた山羊小屋に出向いていった。山羊の様子が気になってしかたがなかった。
 寝ていたコウメエーは人の気配に、 背中に回していた首をもたげた。瞼を半分ほど開けて好子を見た目が、 疎ましいというばかりだった。心弾んで山羊小屋にやって来ただけに、 こういう態度はひどく好子を落胆させた。コウメエーは好子に何の興味もないらしく、 すぐに首を背中に戻した。夜が明けたばかりの室内は薄暗く、 冷え冷えとした空気が漂っていた。新しい環境に馴染めないまま、 向こうむきに寝ている後ろ姿がいやに孤独に見えた。夜に与えた餌がなくなっていたので、 草を持って小屋の内に入った。体でもさすって慰めてやろう……、 そんな気持ちだった。
 山羊は部屋に入った好子に気づくと、 急に体を起こして立ち上がった。見る間に目を吊り上げ、 首を伸ばし、 怒りの表情を露にした。コウメエーは少しずつ足を速めて、 棒立ちになっている好子の足の付け根に、 二度、 三度と頭突きを食らわした。角が生えてないから身の危険はないのだが思いきりやられて、 彼女はあまりの痛さに手にした草を放り投げ、 慌てて戸口に逃れた。
 小屋の外へ一歩踏み出し、 後ろを振り返ると、 コウメエーは頭をぐっと下げて、 顎を引いたまま、 逃げる好子のすぐ後ろまで迫っていた。またもや頭突きを食らわそうとする構えなのだ。恐怖のあまり、 わぁーと声が出たが、 すばやく戸を閉めることができた。外に出ると、 吊り上がっていた目は下がり、 コウメエーは急に穏やかな顔つきに変わった。
 家族で朝食を食べながらも、 いやな山羊だという思いは拭えなかった。友達のように遊べると思っていただけに、 これからあんな山羊の世話をしていかなければならないのかと考えると、 幼い好子はやりきれなかった。
「お父ちゃん、 メエーちゃんに頭突き食らわされたよ。小さい頃と違って、 あいつ生意気になったよ」
 昨日、 仕事から帰った父親の孫一は、 戻ってきた山羊を見ても、 もう何も言わなかった。
「メエーちゃんはのう、 かわいがってくれた向こうの人たちのことが忘れられへんのや。誰も知った人のいない所に連れて来られて、 さびしいてたまれへんのや。好子と仲ようなるのには、 まだだいぶ時間がかかるんやで。それまでやさしゅう世話してやりよし。ええな」
 柱時計が七時の時報を打ち、 食事の終わった父親は立ち上がった。サラリーマンの孫一は、 自転車で一時間余りかけて会社に通っていた。海岸線を走るためか、 自転車はすぐに錆びてしまい、 二年もてばいいほうだった。
(お父ちゃんはああ言ったけど、 コウメエーはいつになったら私に懐いてくれるんやろう……)
 学校が終わってから夕方の草刈りに出たら、 初冬の上空を茜色に染まった雲が南の方角にゆっくりと流れていた。黄土色に変わりつつある堤防の上を、 昨日歩いた斜面とは反対側の道を辿った。少しも懐こうとしない山羊を相手にして、 青草を求めて歩くことは好子にしてみれば疎ましかった。そのうえ一生懸命に青草を刈って与えても、 コウメエーはその草の中から自分の好みの草だけを選り出して食べ、 気に入らない草は足で踏みつけて、 口にすることはなかった。自分から世話をすることをかって出て、 コウメエーをもらい受けただけに、 好子は今さら嫌だとも言えなかった。
 二か月近く経っても、 コウメエーは一向に懐かなかった。どこまでも反抗的な態度に出会うと、 もともとこういう嫌な性格だから、 母の実家の方も簡単に手放したのでは、 と疑いの目を向けたくなる。山羊に対する愛情などまったく湧いてこないのは、 世話をするほうも、 されるほうもお互いが哀れだった。肉体的にはきつくても、 百姓仕事のほうが好子には性に合っているように思えてならなかった。
「この山羊はいつまでも慣れんのう。しかし、 もう少し我慢してごらん。四月には子山羊が生まれる。子山羊が生まれれば、 メエーちゃんもきっと変わるから」
 孫一は、 そういって滅入っている好子を慰めた。

 やっと春になった。農道には、 れんげ草の花が咲き誇っていた。少し歩調を速めれば、 汗ばむほどの陽気で、 南国の田園風景はもうすっかり初夏の光に溢れているように思われた。
 好子は学校からの道を急いで駆けながら、 最後に桜の花の散り敷いた門をくぐった。期待に胸ふくらませて山羊小屋を覗くと、 今日あたりだろうと孫一が出かけに言っていたことが的中していて、 やはり子山羊が一匹生まれていた。
 生まれてから、 まだあまり時間が経っていないのか、 毛が濡れていて立つこともできなかった。長い耳も付け根のところから垂れ下がっていた。コウメエーは立ったまま子山羊を舐めては、 頻りに、 ウフッ、 ウフッと、 優しい含み声で子山羊に語りかけた。何を話しているのかわからなかったが、 母親の愛情が伝わってくる、 静かで安らぎの感じられる含み声に聞こえた。
 床に腹をつけている子山羊が、 語りかける母親の方を見ないのが不思議に思われた。どうやら子山羊は、 母親に甘えるより、 生まれて初めて見る形の変わった人間のほうに興味があるらしい。山羊小屋からは、 見渡す限りの田園風景が眺められた。子山羊は風になびく草木や、 立ち働く遠くの人間、 あるいは脇にいる自分と同じ姿をした母親よりも、 ただ小屋に顔を近づけ、 食い入るように見つめている好子とその脇にいる妹ばかりに視線を注いだ。
 濡れている毛が少しずつ乾いてくると、 やがて子山羊は、 四つ足を踏んばって立ち上がった。しかし、 二秒も立つことができなかった。すぐに手足に小刻みな震えがきて、 床に体ごと倒れてしまった。何度倒れても藁の上だから、 それほど痛くはない。コウメエーは、 倒れ込んだ子山羊の背中を、 口で下から持ち上げるふうにしながら突いた。さあ、 もう一度やってごらんと励ましているように見えた。
 一時間もしないうちに、 子山羊は覚束ないながらも歩けるようになった。乳を飲むのかと思っていたら、 よたつきながら、 好子の傍にやって来た。木の柵の間から差し出している指に鼻を近づけた。それから好子と妹の顔をしげしげと眺めた。
「やあ、 メエーちゃん」
 好子は、 恐怖心を抱かせないようにやさしく話しかけた。
 しかし、 なんてかわいいのだろう……、 動く白いぬいぐるみだ。見つめているだけで、 平和な満たされた思いと、 言いようのない幸福感を感じた。少しも心開かないコウメエーのために、 草が枯れ、 黄土色にくすんだ野原や田の畦を、 青草を求めて三時間近くかけてくまなく歩いた厳しい冬のことも、 これで報われる気がした。
 子山羊の背後から、 コウメエーのウフッ、 ウフッというやさしい含み声が聞こえた。さっきと同じ語り方なのに、 子山羊は途端に好子から離れて母親に近づいた。母親の下腹に口を近づけ、 ぱんぱんに張った乳首に口をもっていった。しかし、 子山羊からすれば乳房は高い位置にあった。口先を突き出し、 首を伸ばして飲もうとがんばるのだが、 あと少しのところで乳首に届かなかった。子山羊は幾度も足場を変えた。伸び上がるようにしてやっと乳首を含むと、 目を細めて乳を吸った。口の中で唾液と絡み合って、 粘っこい音が洩れた。コウメエーは、 首を後ろに回して、 子山羊を見つめていた。やはりウフッ、 ウフッとやさしく囁きながら、 嬉しいのか、 短い尻尾を頻りに振った。
 子山羊は幸いにして雌だった。骨が固まるまでに時間がかかるから、 一週間は決して触れてはいけないと父親から言われたことを好子は忠実に守った。母の実家のことが忘れられないコウメエーとは違い、 子山羊は真っ白な心のままで、 好子の愛に接するだろう……。子山羊の反応が楽しみだった。
 一週間目の夕方、 好子は山羊小屋の戸を初めて大きく開けた。それから戸口にかがんで両手を突き出し、 子山羊を誘った。子山羊はすぐにやって来て、 差し出した指に鼻を近づけ、 匂いを嗅いだ。頭から下へと体を撫でると、 子山羊独特の柔らかい毛並みが、 ビロードのようにすべすべしていた。
 好子は手を前に突き出したまま、 一歩二歩と後退した。それと入れ替えに、 部屋の奥の方で我が子の様子を窺っていたコウメエーが、 すぐに戸口までやってくるのが見えた。コウメエーは、 好子が子山羊から離れるのを待ち構えていたように思われた。子山羊ばかりに気をとられて今まで気づかなかったが、 耳がピーンと立ち、 目が吊り上がり、 明らかに怒りの表情をしていた。
 コウメエーは前足を高く挙げたかと思うと、 部屋から出ていこうとしている子山羊の背中へ、 思い切り振り下ろした。好子に懐いていく我が子が許せないらしく思われた。叩かれて、 子山羊はよろけて藁の上に倒れ込んだが、 再び立ち上がると、 今度は少しも躊躇しなかった。子山羊は、 母親の制止を振り切って部屋の外に出た。コウメエーは追って来なかった。
 狭い部屋の中から人間の傍に来て、 子山羊はむしろ快活だった。初めて土の上を歩くのが楽しくて仕方ないようだ。妹も一緒にいるのだが、 どういうわけか、 好子の後ばかり追って歩いた。胸に抱いても少しも嫌がらなかった。頭を撫でてみたが、 気にかかっている角も生えていない。体のわりには不釣り合いな大きい耳もきちっと伸び、 ピンク色の鼻先もしっとりしていて健康そのものだった。
 夢中で遊んでいた子山羊が、 突然好子を見つめたまま動かなくなった。不思議に思って見ていると、 ぴちょぴちょと音がした。子山羊は突っ立った姿勢のまま小便をしていた。たいてい山羊は、 足にかからないように少し腰をかがめる。そんなことさえまだ知らない幼さが、 かえっていとおしかった。抱き上げたが、 濡れた足など少しも気にならなかった。また、 糞もしたが、 まだ草を食べられない子山羊の糞は小豆ほどの大きさで、 見た目にもやわらかく、 黄土色をしていた。
 好子たちが戯れていると、 猫のちょびが庭先に出てきた。ちょびは歩みを止め、 動き回る子山羊を大きく目を見開いた驚きの様子で眺めていた。子山羊もそれに気づくと、 立ち止まって自分と同じ四足の猫を見つめた。しかし、 生まれた日、 歩けるようになって好子の傍に来たように近寄っていこうとはしなかった。
 十五分ほどで遊びを打ち切り、 小屋に戻した。生まれてまだ一週間しか経っていない子山羊の体力を考えると、 これ以上の遊びは控えなければならなかった。部屋に帰っていく子山羊を、 コウメエーは戸口まで来て出迎えた。コウメエーは先ほどのことをまだ許してはいなかったのか、 それとも別な意味があるのか、 子山羊に対して目を吊り上げると、 出ていこうとしたときと同じように、 前足を振り挙げて思い切り背中を叩いた。
 次の日は日曜日で、 仕事が休みの父親の孫一が、 子山羊と遊んでいる好子たちのところへコウメエーを連れてやって来た。子山羊は母親の傍には行きたがらず、 やはり好子の後ばかりついて歩いた。自分を無視している子山羊に対して、 しかしコウメエーは昨日と違って、 無言のまま細めたやさしい眼差しで我が子を追っていた。あの愛情溢れる含み声はまったく発しなかったが、 その顔面からは、 母として言いようのない満たされた思いでいることが好子にも伝わってきた。コウメエーがこの家に来て初めて見せる穏やかな表情だった。好子にもなぜか好意的で、 近づいても目を吊り上げたりしなかった。我が子を相手に遊んでくれることが嬉しいと解釈するには、 昨日子山羊が外に出ようとしたとき、 背中を思い切り叩いて制止したことが不思議だった。それとも心を開かなければ、 自分だけ仲間はずれになるとでも悟ったのだろうか……。
 大きく西に傾いた太陽が、 新緑の山々に陰を落としていた。風のまったくない夕方、 好子はやっと家族の一員になれたコウメエーを見た思いがした。
 翌日、 好子はコウメエーを試す気持ちだった。思ったとおりコウメエーは好子に対する態度をガラリと変えていた。好子が小屋の中に入っても、 目を吊り上げなかった。小屋の中で子山羊を抱き上げることも許してくれた。子山羊を撫でた後、 コウメエーの首筋を撫でると目を細めて心地よさそうな表情になった。母の実家から無理につれて来たが、 反抗的な山羊の態度に、 自分でも気づかないうちに好子自身も壁をつくっていたのかも知れなかった。好子は湧き上がってくる嬉しさを噛みしめながら、 コウメエーの名前を幾度も繰り返しては、 体を撫で続けた。
 次の日から、 山羊を連れて夕方の散歩に出た。子山羊を抱いた好子が先頭に立ち、 次にコウメエーが続き、 その後ろを妹が歩いた。農道には、 春になって吹き出した山羊の好む柔らかい草が、 四日前に降った雨に潤って、 道端の至るところで息づいていた。刈ってきて与える草の中から、 コウメエーが選り出して食べる草ばかりだった。好子は美味しそうな草を前にして歩みを止めたが、 コウメエーは口を近づけることはせず、 前方の山々におっとりした視線を投げたままだった。
 道を突き抜けて堤防まで来ると、 抱いていた子山羊を下ろした。環境が違うせいなのか、 庭先で遊ぶように子山羊は快活ではなかった。それどころか、 地面に下ろされて不満だというばかりに、 恨みのこもった表情で好子を見上げた。どうも子山羊は、 甘えん坊で内弁慶らしかった。
 堤防を横切って鉄橋がかかっていた。山羊はどういうわけか汽車をとても恐れた。乗り物と見るのではなく、 自分たちを襲う大きな怪物とでも解釈するのか、 あるいは黒い色とか煙突から出る煙を怖がるのか、 好子にはわからなかった。家の百五十メートルほど先に線路が走っていたが、 庭先から見る汽車は一向に平気なくせに、 それ以外のところではひどく脅え、 必ず人間の傍に走り寄ってきた。とくに鉄橋を渡る汽車には、 異常なほどの反応を示した。
 鉄橋は風とか太陽光線に熱せられて、 ときどきゴトンという音がした。しかし、 汽車が近づいてくる音は、 自然の織り成す音色とは微妙に違って、 ほんの微かに重苦しい響きがあった。よほど聞き慣れた人間でないと、 二つの音の違いを捉えることはできないだろう。過去に友達と遊んでいるとき、 好子はこの重苦しい音を聞いて、 もうすぐ汽車が来ると言ったことがある。友達は不思議がった。長く伸びる線路のどこにも汽車など見えてはいないのだ。しかしはるか遠くの地上の振動にさえ鉄橋は反応していて、 好子の言ったとおり、 それから三分近くして、 汽車が山のトンネルを抜けて通過していった。だが、 この音の違いを好子はすべて聞き分けたわけではなかった。なぜなら、 幾重にも連なる山麓を走ってくる汽車にしか、 鉄橋は重苦しい音を立てなかったからである。川原などで遊んでいるときなど、 田圃を横切って走ってくる汽車は、 地質の違いなのか突然現れて通過していくという感じがした。
 野性の本能なのか、 山羊はこの音の違いを間違いなく聞き分けた。コウメエーは、 汽車の立てる音には長い耳を立て、 ひどく脅えた表情で大きく見開いた目をきょろつかせた。だが、 見渡す限りの田園風景があるだけで、 汽車など見えはしない。遠くの振動をとらえて鳴った音は、 三十秒近く間があいて次の音が鳴る。汽車が鉄橋に近づくにしたがって音の間隔が狭まり、 かつ大きくなる。コウメエーはその間、 見えない相手にやたらと恐怖心をかき立てられているように見えた。しまいには首と目だけではすまなくなる。四つ足を頻りに動かして足踏み状態になり、 体までが震えだした。しかし、 姿の見えない敵に対しては、 どの方角に逃げてよいのかわからないのだろう。
 ポッと汽笛が聞こえた。どうやら汽車がトンネルを抜けたようだった。トンネルを抜ければ、 鉄橋までの距離は五百メートルほどだった。轟然となった鉄橋に、 コウメエーはもう堪えきれないらしかった。メェーと鳴きながら、 好子の傍に走り寄って来た。好子は恐怖心の固まりになっているコウメエーの頭を、 着ている上着のボタンを外して、 自分の脇腹に入れて覆ってやった。近づいて来る敵に対して、 頭隠して尻隠さずだけれど、 そうすることによって、 コウメエーは途端に落ち着くのだった。汽車が通り過ぎて頭を出したコウメエーは、 少しずつ遠ざかっていく汽車をじっと見つめているのが常だった。
 子山羊が草を口にするようになると、 好子は親子を引き離した。いつまでも子山羊に乳を吸われっぱなしというわけにはいかなかった。乳絞りは朝と夕方の二度で、 四月から九月の半ば頃まで続くのである。好子は眠たい目をこすりながら布団から抜け出すと、 妹に後ろ足を持たせて乳をしぼった。コウメエーは、 豊富に乳が出た。作業の途中で乳の出が悪くなると、 好子は手の甲で乳房を突き上げた。子山羊が乳房をつつくと、 萎えていた乳首もぱんぱんに張ってくる。その母性本能を人間が利用するのである。新緑の季節を迎えて、 刈る草には苦労することはなくなったが、 しぼったばかりの乳に、 大さじ二杯ほどの砂糖を入れて沸かし、 朝夕の食卓に出すのが新たに加わった好子の仕事だった。家族五人が茶碗に二杯ずつ飲んでも、 乳はまだ残った。
 好子の目に、 草を食べ始めた子山羊は急に逞しくなったように感じられた。糞も黄土色からコウメエーと同じ黒色に変わった。自分の足で歩く楽しさを知った子山羊は、 いつも好子の後ろばかりついて歩いた。好子が走れば一緒に走り、 擦り寄って来ては、 体を撫でてもらうことや、 かまってもらうことを期待した。子山羊も自分が好子に愛されていることは充分知っていたので、 無視されるのをとても嫌がった。かまってもらえないとき、 子山羊は自分のほうから好子にしかけてくる。そういうときの子山羊は、 一緒に遊ぼうよと言わんばかりに前足を挙げて、 好子の体を軽く叩いた。好子は続けて知らん振りをする。子山羊が背中を叩く力は少しずつ強くなる。それでもまだ無視を続ければ、 頭突きを食らうか、 後ろの二本足で飛躍しながら、 背中を向けて座っている好子の体に覆い被さってくる。
「こら、 何するんや!」
 振り向けば子山羊はかまってくれたことが嬉しくてたまらないらしく、 兎のように飛び跳ねながら庭を一周して好子のもとに戻ってくるのだった。
 好子は、 なるべく一緒に行動できるように考えながらコウメエー親子を連れて歩いた。幼いときから、 人間と一緒に行動していれば、 子山羊にとって人間と共に歩くことは当たり前であり、 置いてきぼりを食わされることは納得できないだろう。だが、 どんなに子山羊が一緒に行きたいとせがんでも、 ただ一つ、 どうしても連れていかれない場所があった。学校にだけは連れていけなかった。
 六月の季節を迎え、 田圃は緑一色に変わっていた。植えられてまだ日が浅い稲が風に吹かれて揺れながら、 サラサラと軽やかな音を立てていた。その南風と稲の音を突き破って、 置いてきぼりを食わされた子山羊の悲痛にも似た声が、 学校に行く道すがら聞こえてくる。子山羊は、 大木の松が生えている八百メートルほど先まで、 途切れることなく鳴き続けていた。鳴き叫ぶことによって、 好子が迎えに来てくれるとでも思っているのかも知れなかった。子山羊の視力はとてもよくて、 自分をかわいがってくれる人間と、 同じように登校する児童とを間違えることは決してなかった。ある日の朝、 好子は松の木に隠れたのち、 少し歩みを止め、 子山羊の声に耳を澄ませたけれど、 稲が風に揺れるざわめきばかりが聞こえるだけだった。好子の姿が見えなくなって、 子山羊はとうとう諦めたらしかった。こうして鳴き叫ぶ子山羊もかわいそうだが、 近くの田圃で働く人たちから、 メェーメェー鳴いてうるさいなどと言われだした。好子は登校するとき、 子山羊に気づかれないように山羊小屋を避けて、 そっと家を出るようになった。
 子山羊には、 チビという名前がついていた。妹がつけた名前だった。チビも自分の名前はわかっていて、 たとえ好子と離れて遠くにいようと、 チビと呼ばれるだけで走り寄ってくるのだった。
 コウメエー親子は好子たちに甘えるけれども、 反面、 好子たちを助けることも、 慰めることもできた。決して学習によって覚えたわけではなかった。状況に応じて自分の判断だけでそれをやってのけた。
 緑の絨毯を敷きつめたような田圃にも、 農薬を散布する時期がやって来た。山羊の好む草も、 この季節になると、 農道では刈ることができなかった。風に吹かれた農薬が道端の草に振りかかっていることは充分考えられた。
 ある日、 好子は母親から畑から切り出した野菜を家まで運ぶように言いつけられた。リヤカーを使ってやる仕事は、 前で好子がリヤカーを引き、 妹が途中の荷物の落下に注意しながら後ろから押すのだった。荷を積み終えると一緒にいて、 荷積みの邪魔になっていた子山羊の引き綱をリヤカーの梶棒にくくりつけた。こうすれば、 農薬のかかった草に口を近づけることをせず、 子山羊は好子と一緒にリヤカーについて来ると思われた。
「それ、 出発だぞ」
 後ろから押す妹に声をかけた。するとどうだろう。ただ、 邪魔になるだけの存在でしかないと思っていた子山羊が、 かけ声を聞いた途端に先頭に立って力いっぱいリヤカーを曳きはじめたのである。好子は一瞬、 自分の目を疑い、 動物を擬人化しているおとぎ話の主人公に、 自らがなったような感覚におちいった。先頭に立つ子山羊は、 先ほどまでの穏やかな表情が消えていた。厳しい眼でぐっと前のめりになりながら首を地面に近づけ、 一歩一歩と前進していく。人間の言葉をどうして理解できたのだろう。いや、 言葉を理解したのではなく、 その場の状況判断でやってのけたのかもしれなかった。
 子山羊は力を抜くということができず、 自分の持てる力を出し切っているように見受けられた。しかし、 幼さがかえってあだになり、 引き綱がやわらかい首に食い込んで、 呼吸するたびにヒィーヒィーと喉が鳴った。そして子山羊は苦しそうな息の下からときどきはげしく咳きこんだ。それでも子山羊は足を踏んばって、 前へ前へと進み続けた。
 いくら死にものぐるいで頑張ったとしても、 生まれてまだ三か月しか経たない子山羊の力など、 どれほどの助けにもなりはしない。しかし、 いつも自分をかわいがってくれる人間の助けに子山羊はなりたいのだろう。牛や馬のように鞭を振り下ろして一生懸命に曳けと強要しているわけではなかったし、 人間のように学習によってそれを学んだわけでもないのだ。前を行く子山羊に、 好子は自分には解らない動物の未知なる能力を見る思いがした。
 途中で農婦に出会った。農婦はリヤカーを曳いていく好子たちに道を開けてから歩みを止めた。
「まぁー、 なんていう山羊なの、 まだ、 幼い子山羊だのに……、 感心やのう、 山羊がこんなことを……、 はぁー、 かわいいもんやのう」
 感心しながら目を細めた。好子は内心得意になった。
 家に着くと、 偉かったと言いながら子山羊の頭や首を撫でてやり、 好物のふかし芋を与えた。人間とは違って、 動物は急速に生育し、 その持てる力をまだ早い子どものうちに閉ざしてしまうのかもしれないけれど、 おそらく動物はこうあるべきだと人間が考えるよりも、 もっと高度な知能を持っているだろう。
 ある夜、 母親に叱られて、 好子は月明かりだけのさびしい外に締め出された。仕事に忙しいだけの母は、 時には躁急的でほんの些細なことにでも、 子どもを叱ったりした。手伝いをしなかったと言って叱られることが一番多かったけれど、 しかし、 クラスの中で好子ほど家の手伝いをする子はなかった。先生もよく理解していて、 宿題をやっていない子どもは教室の後ろに立っているように言いつけられたが、 好子だけには立たなくてもよいと言ってくれるほどだった。
 家から閉め出されると、 恐怖心と切なさでいっぱいになった。田圃の中の一軒家の周りは街灯一つなかった。昼間の心なごむ風景も、 明かりの失せた夜は、 お化けでも出そうな恐怖を抱かせた。空や山に目をやれば、 今にも火の玉が飛んできそうな気がしたし、 風に揺れる稲のざわめきは人の泣き声に聞こえてならなかった。一人でいることは恐ろしかった。そんな時、 好子はいつも山羊小屋に行った。
 足音さえ聞けば、 必ず起き上がって迎えてくれる山羊も、 いつもと勝手が違うためか、 好子を見てもなかなか近寄っては来なかった。突っ立ったままで、 部屋の奥の方から視線を投げている姿に、 なお切なさがこみ上げてきた。
 だが、 しばらくして、 コウメエーがゆっくりと歩み寄って来た。入り口に座り込んでいる好子に顔面を近づけると、 コウメエーはウフッ、 ウフッと優しい声で囁いた。月明かりの下で見るコウメエーは、 真っ黒な大きな瞳になっていて、 白い鹿に見えた。
「ウフッ、 ウフッ」
 口の周りに生えている子猫のような細い口髭が、 涙で濡れた好子の顔面を撫でていった。
「ウフッ、 ウフッ」
 この特徴のある含み声を好子は忘れてはいなかった。子山羊が生まれた日に、 体を舐めてやりながら、 優しく話しかけていた母親の声だった。初めはとまどって、 ただ見ているだけだったけれど、 コウメエーはやさしく好子を慰めてくれるのだった。些細なことで叱る自分の母と違って、 チビの親はなんてやさしいのだろう。好子はコウメエーの頭を両手で抱え込むと、 今度は声をあげて泣きじゃくった。
 コウメエーは母の実家からもらわれてきたとき、 なかなか新しい環境に馴染めなかった。好子にも反抗的で、 部屋の内に入ることも許さなかった。山羊の気持ちなどまったく無視して、 人間のエゴであっちに行ったり、 こっちに戻って来たりと好き勝手にされた。好子の愛を受け入れなかったのも、 今までかわいがってくれた母の実家の人たちのことが忘れられなかったのかも知れなかった。
 ペットとして一般的な犬や猫は、 人間に愛情豊かに育てられて、 懐いたり甘えたりするけれど、 反面悲しんでいる人間を慰めたりすることがあるだろうか。山羊は育て方ひとつで、 とてもいい仲間になれるのだけれど、 大概はまともに相手にもされず、 小屋の中で孤独に生きるのが一般的な山羊の生涯かもしれない。
 二匹に海を見せてやりたいと思って家を出た。川口から海に抜ける道を辿った。夏になれば防風林に蝉時雨が浴びるほどなのに、 六月の季節では何も聞こえず、 歩みを止めたら波の音だけが聞こえた。潮の香りを含んだ風が静かに木間を吹き抜けているばかりで、 人ひとりいなかった。野犬に襲われたときのことを考えて、 途中で大きめのじょうぶな小枝を一つ拾って妹に持たせた。
 松林の中は砂で覆われていたが、 浜は握り拳ほどの石が、 下に行くにしたがって小さくなり、 やがては砂利となって水際に続いていた。この浜辺は、 よく時代劇の撮影に使われて、 今までにもいろいろな俳優を見かけた。
 その昔、 竿一本で操られ、 筏を組んで富田川を下ってきた紀州の材木は、 この浜辺を起点に船で海を渡って全国に散っていった。海運の衰退とともに、 今度は漁業で賑わった浜も年々少なくなる漁獲量に採算がとれなくなり、 村人は海を捨てていた。夏の季節でない限り、 海に人の姿を見ることはほとんどなかった。ほんの少しの岩場と、 滅多に使用されない櫓こぎの舟が三隻、 それを引き揚げる器具があるばかりだった。たとえ二、 三百年溯ろうと、 違和感を感じさせるものは何もないような気がした。
 まだ陽は高いはずなのに、 太陽を遮った雲がコバルト色の海を不透明な濁った海に変えていた。砂利を敷き詰めた海岸線に打ち寄せる波は、 砂浜とは違って、 どことなく素朴で荒々しい感じがした。
 初めて海を目の前にして、 コウメエーは目を細め、 少し鼻先を持ち上げるようにして沖を見つめた。しかし、 打ち寄せる波に近づいていくことはしなかった。海面を渡ってきた風に、 ときどき鼻先をぴくつかせる様子を見ていると、 広大な海の耽美よりも、 潮の香りに酔っているように思えてならなかった。一方、 打ち寄せる波にきっと喜ぶだろうと思っていたチビは、 好子の期待に反して、 つまらなそうに沖を見つめるだけだった。
 帰り道は浜伝いに辿って、 堤防に抜けた。畑の中で鍬くわを使って畝あげをしている農夫がいて、 そのまだ向こうに、 河川敷の草場に猟犬を連れた男が歩いていた。しばらくしてバァーンという音が聞こえたので、 そのほうを見ると、 木に止まっていた二羽の烏が慌ただしく飛び立っていた。一羽は見る間に空中高くに舞い上がり、 松原の方に向かって飛んでいった。カアカアと悲鳴をあげて仲間を追う烏は、 たどたどしい羽音を立てていて、 なかなかうまく飛べなかった。焦って首だけが前へ前へと突き出ているように見え、 抜けた羽が一本空中を舞いながら落下してきた。傷を負った烏は、 空高く舞い上がると、 落ち着きを取り戻したのか、 今度は普通の飛び方で松原の方に向かった。飛ぶことに何の支障もないように思われた。「ちくしょう」 と男の声が聞こえた。怖いばかりの男に見えた。
 烏ばかりに気をとられていた好子は、 前方に視線を戻して仰天した。男の連れていた猟犬がいつの間にか堤防に上がってきて、 好子達の前に立ち塞がっていた。犬は明らかに山羊を狙っていた。コウメエーたちは、 今にも飛びかかってきそうに身がまえている犬に震えあがって、 好子たちの背後にぴたりと身を寄せた。
 妹は松原で拾って、 まだ捨てずにいた小枝を振り挙げ、 好子は鎌を持っている右手を振り挙げた。自分も逃げ出したい気持ちのはずなのに、 コウメエーたちのことを考えるとなぜだか勇気が出た。襲ってきたら鎌の先で突いてやろうと、 好子は犬の目だけに狙いを定めた。山羊から視線を外して、 犬は先頭に立っている好子ばかりを見ていた。好子はさあ来いと思うばかりだった。犬はなかなか次の行動に移らなかった。睨み合っている時間はきっと長かったろう。しかし、 好子は時の流れを感じなかった。
「チェス、 チェス」
 突然、 犬を呼ぶ声を聞いた。男が犬に気づいたようだった。犬は首だけを回して男と視線が合うと、 途端に身をひるがえして男のほうに駆けていった。堤防を駆け下りていく犬を見て、 男はもう背中を向けて歩きはじめていた。
「警察に言ってやるぞ、 おまえなんかどっかへ行ってしまえ」
 気のすまぬ妹はその背に向かって、 大声で罵倒を浴びせた。
 草以外で山羊の好物は、 ふかし芋や糠、 沢庵、 小麦粉でかたく練り上げた後、 油であげた煎餅などだった。とくに油で揚げた煎餅は大好物で、 最後には煎餅の入っていた紙袋までむしり取って食べた。だが、 人間の口にするものは、 魚のじゃこでも果物でもほとんど何でも食べた。好子は、 いつも給食のパンを山羊のために半分残して持って帰って与えた。食事が足りないでひもじくなれば、 好子はおひつにあるご飯を食べればよかった。周りが田圃ばかりの環境では、 山羊におにぎりを食べさせることは絶対しなかった。米の味を覚えれば、 稔った稲穂に口を持っていくことが充分考えられたからである。
 草を食べる山羊の口の中は、 人間のように滑らかではなく、 無数の長いトゲのような突起で覆われていた。突起はちょうどヤマアラシの毛のように見えた。この構造のためなのか、 山羊は茨でも平気で食べた。糠を食べた後は、 甘納豆のような黒い糞ではなくなり、 人間の糞と変わらない色で連なった形の糞をした。
 秋になった。チビも雌として初めての発情期を迎えた。猫などは春でも夏でも季節をわきまえず発情するが、 山羊の場合は、 秋から冬にかけて三週間ごとに発情して、 春になって子どもを生んだ。
 普段はおとなしいチビも発情すると、 じっとしていることができなかった。腹から絞り出すような声で長く尾を引くように鳴きながら、 狭い部屋の中をぐるぐると一日中回り続けた。好子が傍に行こうが、 その行動はやむことはなかった。鳴きながらときどき首を上下に動かしたりもした。歩き方も乱暴で藁を蹴るような歩き方だった。夕方、 藁の上はチビの歩いていた場所だけがドーナツ型にへこんでいた。一緒の部屋に入っているコウメエーは、 そんな我が子を部屋の隅によけてじっと眺めていた。
 一方コウメエーのほうは、 発情しても部屋の中で下を向いたままじっとしていた。この山羊は普段から性格もおっとりとしていた。村の他の山羊と比較しても、 人間に喩えれば、 どこかしら上品なお嬢さまのようであった。発情したときは、 いつもと向きを変え、 必ず入り口に尻を向けていた。好子が傍に行っても、 後ろを向いたままの姿勢は変わらなかった。部屋の奥の方にいて、 こちらに近寄って来ることもなかった。好子を無視したまま、 じっと立ち止まって下を向いている姿は、 突き上げてくる得体の知れないものを抑えているようにも見受けられた。鳴き方はチビと同じように長く尾を引いた。
 次の月にも親子は発情した。発情期はたった一日間で、 結局前回の発情で二匹とも子どもを宿さなかったことになる。
 村にいる雄山羊は一匹だけだった。コウメエーの母親は、 この雄山羊と契ってコウメエーを生んだ。したがって、 コウメエーは自分の父親と契ったことになる。そうして生まれたチビも、 また契る相手は自分の父親なのだった。山羊の体毛は白い毛で覆われているが、 堤防で草を食べている山羊たちを遠くから見たとき、 好子の家の山羊だけがずば抜けて白かった。ある村人からは、 風呂に入れているのかと問われたこともあったが、 好子自身、 山羊をどうやって風呂に入れればよいのか思いつかなかった。白い毛に混じって赤茶けた毛が生えている山羊もいた。そんな山羊を遠くから見ると、 薄汚れて見えるのかもしれなかった。しかし一番考えられることは、 同じ父親の遺伝子を重ねた結果、 コウメエー親子には劣性遺伝子が働いたとも言えなくもなかった。
 雄山羊は雌とは違って体毛も長かった。その体毛が汚れに汚れて、 山羊独特のひどい悪臭を放っていた。匂いは異なるが、 悪臭のひどさに喩えれば、 豚小屋から発散する匂いのように強烈だった。おそらく小屋に敷いている藁もあまり交換してもらえないで、 粗末で不潔な扱いを受けているのだろう。
 気性の荒そうな雄山羊の引き綱は鎖だった。草も刈って与えられるのではなく、 いつも堤防に繋がれて草を食べていた。人を見ればすぐに頭突きのかまえをするほど攻撃的で、 好子はこの山羊の傍を通るのさえ怖かった。
 晩秋の稜線が黒い影となって、 空の境界線にくっきりと浮かび上がって見える月の明るい夜だった。訪ねていく雄山羊の家はまだ七十メートルほど先だった。しかし、 その独特の臭いは風に乗って、 狭い農道を歩いていく好子たちのところまで強烈に臭っていた。
「ここで待っていよし」
 話をつけるため、 母親が一緒にいた好子たちを残していなくなった。二度目の発情ともなれば、 チビはこの雄山羊の匂いを覚えていた。チビは嬉しいのか、 母親がいなくなると、 俯いていた今までの態度をガラリと変えて、 頻りに後ろの二本足で立ち上がっては伸び上がり、 凭れかかるように自分の体を好子に預けて甘えるのだった。
 母親は、 五分ほどで戻って来た。話がついたらしく、 今度はチビだけを連れて雄山羊のところへ向かっていった。
 妹と二人きりになると風が急に冷たく感じられた。空を見上げると、 雲が流れていた。月は明るいのに、 いやにさびしい空の景色だった。一人でないせいか怖くはなかった。
 十五分ほどで母親に引かれて帰ってくるチビが見えた。傍に来てもチビは俯いたままで好子の方を見ようともしなかった。無視し続けるチビを見ていると、 さっきまで二本足で立ち上がって、 凭れかかって甘えていたことが嘘のようだった。体からは強烈な雄山羊の臭いがした。月明かりだけでははっきり判らなかったが、 体が雄山羊のおしっこでベタベタのような気がした。もし母親に引き綱を持つように言われたらどうしようと思うほど、 好子はこのときチビを不潔に感じた。
 いつも、 好子の後ろばかりついて歩いていたくせに、 チビは皆の先頭に立って来た道を戻りはじめた。灰色っぽく見える農道に、 月がそれぞれの淡い影をつくっていた。俯いたまま帰っていくチビは、 自分の影を追っているように見えた。
 翌日見るとチビの体は、 ところどころが薄茶色に汚れていた。雄山羊の色がそのままチビの体に撫でつけられたようだった。体からはまだ悪臭を発散させていた。昨夜、 帰り道でまったく好子を無視したあの態度はどこにいったのだろう。チビは傍にやって来て口を近づけると、 好子の指をしゃぶった。いつもなら首から体へと手がいくのだけれど、 好子は頭だけを撫でながら、 朝食用の草を投げ入れた。
 種つけ料は、 三百円だった。母が農閑期に土方に出て稼ぐ金が日当で二百九十円である。それでも、 母は一番の働き者で仲間の人より十円多く貰っているということだった。乳をしぼるために、 コウメエーとチビで六百円払ったことになる。決して簡単に出費できる金額ではなかったが、 とうとう今年は二匹とも子を宿さなかった。
 冬になると、 堤防や河川敷の草場が一面に黄土色に変わった。太陽の照りつける暑い夏は嫌だけど、 堤防は緑の草で覆われている。南国の冬は、 夏より過ごしやすいのだが、 牛のように藁や干し草を口にしないコウメエーたちの食糧を考えると、 好子にはつらい冬だった。
 母は庭の畑の全部に水菜を植えてくれた。人間が食べるのではなく、 山羊の食糧の補充のためだった。山羊は水菜があまり好きではなく、 野菜では高菜を好んで食べた。しかし、 高菜は水菜より作付面積からの収穫量は少ないのであまり植えられなかった。
 ある朝、 ふと外を見ると、 まだ少ししか収穫していない庭の畑の水菜の中に、 市場の仲買人が立っていた。道端には小型トラックが止まっている。仲買人は鎌を手にしていた。母の声が聞こえた。
「うちには山羊がいるもんで、 水菜は売れないんですよ」
 ニコニコ顔で話す仲買人とは違って、 母は困り切った表情をしていた。それから二人の間でどういう話し合いがなされたのだろう。仲買人は持っていた鎌で水菜をかたっぱしに切りはじめて、 トラックに積んでいった。
「メエーちゃんのために植えた水菜をなんであんな奴に売るんや」
 トラックが去った後、 畑には一株の水菜も残っていなかった。母はたった百円を手にして家の内に入ってきた。
「売らんて言うたけど、 承知しないんよ。あの人達に歯向こうたら、 仲間の人達に言いふらされて、 今度から市場でうちの野菜は安う買い叩かれるんよ。腹たつけど仕方ないんよ。しかし、 何思っているんや、 ただ同然にかっぱらっていって」
 仲買人は、 人の弱みにつけ込んだのかもしれなかった。水菜が欲しいのなら、 市場で堂々と競り落とせばよかったのだ。
「トラックいっぱいで恐らく千円にはなるだろうに……」
 的を射た母の推測だった。
 黄土色の堤防にも、 ところどころに青草があった。蓬、 ぎしぎし、 月見草などがそれである。これらは、 いずれも柔らかくて山羊の好む草であった。好子は青草を求めて、 田圃や畑の岸、 堤防、 河川敷の草場を歩き回った。時には籠いっぱいの草を求めて三時間近く歩く時もあった。
「あそこにもあるよ」
 妹が指さす先を見ると、 草べたこになった畑の中に、 青々としたぎしぎしが生えてあった。岸に生えてあるぎしぎしと違って、 見るからに柔らかく、 葉も大きく広がっていて、 山羊が喜びそうな色つやをしていた。ぎしぎしはたくさん生えていた。あの草を刈れたら、 籠いっぱいになって、 今日はこのまま家に帰ることができた。しかし畑は岸と違って、 他人の領域である。好き勝手に入るわけにはいかなかった。手入れをしない畑だからとて、 他人の領域に入って青草を求めれば、 しまいには他所の畑の野菜を刈って山羊の餌にしているとも言われかねなかった。
「残念だけど、 あれは刈ることはできへんのよ」
 喉から手が出るほど欲しいと思いながらも、 岸に佇んだままどうすることもできなかった。
 どうにか食糧を確保して堤防に上がると、 遠くの好子たちの姿を見つけて、 コウメエーたちが大声で鳴き出した。出かけに残っていた草を与えてきたので腹を空かして鳴いているのではなかった。コウメエーたちは声の限りを鳴きながら、 餌を刈ってくれる好子たちに感謝の意を表わし、 喜んでいるのだった。近くの田圃で働いている人からはうるさがられたけど、 好子の苦労が報われる幸せな一時だった。二匹は、 近頃では鳴き声だけではすまなくなり、 杉皮で葺いている屋根を食いちぎって丸い穴をあけ、 後ろの二本足で立ち上がっては、 かわりばんこに、 そこから顔まで出すようになった。穴は一匹がやっと頭を通せる大きさだった。コウメエーたちは何の支えもないまま、 二本足で屋根まで伸び上がって好子たちに顔を向けた。しかし、 もともと四つ足なのだから体力が続かない。無理な姿勢はしんどいと見えて、 すぐに頭を引っ込める。すると下で待っていたほうが、 また伸び上がって顔を出して泣き叫んだ。その繰り返しを好子たちが家の傍に戻るまでやり続けた。
「おぅーい、 メエーちゃん」  好子は歩きながら、 鎌を持っている右手を高く挙げて左右に大きく振り、 やはり大声で二匹に応えた。彼女は、 一歩一歩と近づいていきながら、 屋根から突き出したコウメエーたちの顔が、 微笑んでいるように見えてならなかった。
 山羊小屋の前で背負っていた籠を下ろし、 刈って来た草を与えた。戸口のところまで来てじっと待っているコウメエーとは違って、 必ずチビは前足の先で小屋の柵を、 太鼓を打つように叩きながら、 後ろの二本足だけで部屋の中を一周してから、 与えた草に口を近づけるのだった。
「あれじゃ雨漏りするのう、 前足で叩きまくっているから、 小屋も急にぼろぼろになってしもうた。建て直さなければいかんのう、 悪いことばかりする奴らじゃ」
 好子にしてみればかわいい仕種も、 孫一には頭の痛い金のかかることかもしれなかった。
 小屋の建て直しには、 人の手を借りずに、 冬休みを利用して父親と兄でやることになった。
「人間の住む家より山羊小屋の方が立派じゃのう、 わしも寝てみたいもんじゃわな」
 三日目の夕方に、 近所の人からからかわれるほど、 小屋は立派にでき上がった。屋根はトタンで、 近づくと新しい木の匂いがした。今までより少し大きめに建てたので、 広々とした感じがした。初日に自分たちの住んでいた小屋を壊され、 しょんぼりしていたコウメエーたちは、 入り口の戸を開けてやると、 さっそく、 何のためらいもなく駆け込むように内に入った。そして、 よっぽど嬉しいとみえて、 前足叩きをやらなかったコウメエーまでが後ろ足で立ち上がると、 チビと一緒になって部屋中を叩きまくって、 感謝の意を表わすのだった。
 好子は少し遅れて内に入った。二匹はとたんにおとなしくなり、 好子の傍にやって来た。換えたばかりの藁の上に足を伸ばして座ると、 両側にコウメエーとチビがぴたりと寄り添った。同じ目の高さになった顔に視線を投げながら、 下から抱え込むように首に腕を伸ばした。それだけで二匹は共に目を細めた。好子はゆっくりと両手を上下に撫で動かした。
「メエーちゃん嬉しいのう、 こんな頑丈な家なら少々叩こうが、 びくりともせんよねえ」
 甘えているのか、 体をぴたりとくっつけてくる二匹の体温を肌でじかに感じながら、 好子はいいようのない幸福にひたっていた。
 朝、 布団の中で、 破れた樋から流れ落ちる雨音を聞いた。昨夜北に向かってのぼっていた重層的な雨雲が思い返された。起き上がって布団をたたみ、 普段着に着替えた。卓袱台の脇の方に置いている籠の中から大きめの蒸かし芋を摘まみ上げると、 外に出て傘を拡げた。近づいていく足音だけで、 コウメエーたちは小屋の入り口まで来て好子を待っていた。寒いのか、 二匹とも毛が立っていた。内に入ると、 コウメエーが口先を好子に押しつけてきた。チビが甘えてこういう仕種をときどきするが、 コウメエーがしたことは今まで一度もなかった。不思議に思ったが、 口先を押しつけた跡を見てすぐに合点がいった。着替えたばかりの服が、 コウメエーの鼻水で光っていた。二匹は与えた芋をたちまちのうちに平らげた。いつもと変わらない旺盛な食欲からして何も心配いらないと思えた。
 しかし、 この二匹はいったいいつ寝るのだろう。一度本で読んだことがあるが、 山羊の睡眠時間は平均して三〜四時間ほどらしかった。野性の動物として生きていくには、 弱い立場のものは、 余り寝ていてはすぐに敵にやられてしまうだろうが、 八時間近く寝る自分と比較して、 好子はコウメエーたちをかわいそうに思ったものだった。
「何も心配要らへん、 メエーちゃんらはな、 好子が学校に行っている間に寝ているんや。好子がいなくなると部屋の奥のほうに行って、 首を背中に回してぐうぐう寝ている。そんな時は人が近づいても薄目を開けてちらっと見るだけでまた寝るんよ。三時頃になって、 今まで寝てた二匹が、 急に起き出してガサガサしだしたと思うたら、 それからしばらくしたらあんたが帰って来るのんや」
 二匹は、 あの大きな耳で好子の足音を聞き分けるらしかった。
 内に入って初めてわかったことだが、 雨をはじいて、 パラパラと音をたてるトタン屋根は意外にうるさかった。山羊小屋から外に出ると、 水はけの悪い門の前に大きな水たまりができていた。雨足は一向に衰える気配はなく、 地上から見上げると、 雨滴は回りながら落ちているように見えた。このままの調子で夕方まで止まなければ、 今日は草を刈りに行くのは無理なような気がした。
 さつま芋は、 貯蔵用の食糧としては、 とても貴重だった。草を刈りに行けない日は、 芋つぼからさつま芋を取り出し、 押し切り器で輪切りにして、 市場に出せないくず野菜と一緒に山羊に与えた。卵一個が十円している時代に、 さつま芋は市場に出しても四キロ二十円ほどで、 まったく馬鹿げた値段しかつかなかった。二匹はさつま芋なら蒸してなくとも喜んで食べたが、 一番好んださつま芋は、 油で揚げて少し塩をふりかけたものだった。
 また暑い夏が去り、 秋が来て、 それからコウメエー達の餌に困る冬を迎えて、 そしてまた春が巡ってきた。あっという間に一年が過ぎたように思えた。今まで妊娠しても一匹しか生まなかったコウメエーは、 この年の春に初めて二匹の子山羊を生んだ。陣痛が始まるとチビは小屋から出された。今年も妊娠しなかったチビは、 なぜ自分が外に出されるのかわからないらしく、 頻りと小屋の内に入りたがったけれど、 生まれた子山羊の姿を見ると、 今度は内に入ることをとても嫌がった。
 好子は中学生になった。毎日通う通学道は農協を過ぎる辺りから、 急に賑やかになる。この道は、 一時間に一本の割でバスが通り、 遠くから自転車で通学する生徒の列が頻りだった。でこぼこの農道から、 セメントのこの大通りに出ると、 好子の心は急に気ぜわしくなり、 落ち着かなかった。
 村にただ一軒ある酒屋の角を曲がると、 新しいことにすぐ手を出したがる叔父が、 耕運機を使って田圃を耕しているのが見えた。畦には三人の男が叔父の作業を見物していた。耕運機は静かな農村に大きな音を響かせていた。牛と人間とで三日はかかる仕事を三時間ほどでやりあげるらしかった。耕された土は、 砂のように細かく、 でき上がった畝はすぐに作付けができた。父が言っていたように、 好子の目にも、 牛や馬がいて長閑だった農村が大きく変わろうとしているのがわかった。
 村から獣医がいなくなったのはそれから間もなくだった。農民が競うように耕運機を手に入れていって、 獣医を必要とする家畜がいなくなったためだった。売られた牛は耕運機の支払代金の一部に充てられた。
 蚊が媒介する病気で、 チビの足が立たなくなったのは夏の初めだった。朝、 前足の右が覚束ないと思っていたら次の日には、 右足はもうチビの自由にはならなかった。
 布団から抜け出て、 山羊小屋に行った。好子の笑顔に、 コウメエーはいつものようにさっと立ち上がって戸口まで来た。毎日何気なく繰り返していた動作なのに、 チビは立ち上がるのにもどかしいほどにもたついた。気持ちばかりが焦るらしく首をやたらと振り動かした。ようようの思いで立ち上がったチビに、 事があまりにも早急すぎて、 これから起こりうる事態をまだ好子はのみ込めていなかった。チビはびっこをひくようにして、 三本足で歩いて戸口まで来たが、 与えた草を食べようとはしなかった。自由の利かなくなった右足をかばうためなのか、 斜めに首を傾けて好子を見つめた。いつものように甘えてこない態度にチビの悲しみが目の前に見える気がした。好子は驚いて、 内に入った。動かない足に触ると、 そこだけがいやに冷たく感じられた。右足を起こして、 他の足と同じように立たせた。餌に近づいていかないチビに、 草を手にとって口先にもっていった。チビは好子の手から少しずつ食べはじめた。頭から首にと優しく撫で下ろすと、 いつもと変わらない目の光に戻った。好子にはチビが気を使ったように見えた。
 だがチビの足は、 二日もすると今度は左の前足がやられた。それから三日の後には、 後ろ足の一本がだめになり、 二週間ほどかかって、 すべての足が動かなくなった。チビは自分では、 もう立ち上がることができなかった。
 立とうとして焦って動かしていた首は振らなくなり、 好子が近づくと四つ足を投げ出して横になったまま、 頭をもたげた。表情だけを見ていると別に苦痛ではないらしかったけれど、 好子の後ろばかり追っていた子山羊時代や、 リヤカーを引っ張って好子の力になってくれた健気さを思い返すと、 思わず切なさがこみ上げてきた。役場に問い合わせれば、 獣医の居場所ぐらい分かる筈である。母親に医者を呼んでくれるように頼んだ。
「あの山羊は乳も出さず、 何の役にも立たなんだ」
 薄情者の母親は、 もうこれ以上チビのために金は使いたくないと言って好子の願いを拒んだ。
 藁の上に投げ出している足に生き血を吸う蠅がとまった。チビは抵抗することもできなかった。扇いでやっていたうちわで叩くと、 腹わたと一緒に血が白い毛にへばりついた。
 四つ足を投げ出したまま、 草を食べている姿はたまらなかった。寝ている姿をなんとかしてやりたかった。妹に手伝わせてチビの体を持ち上げて起こし、 立っている状態にした。少しだけ支えてやれば、 どうにかそのままの姿勢を保つことができた。顔の表情を見ていても苦痛の影は見えなかった。
 三日もしたら、 支えがなくとも立っていられるようになった。考えもしなかった回復力だった。チビは歩きたいらしかった。だが、 前足叩きなどをして自由に動かせた右足は、 十センチ踏み出すのにも、 一分近くもかかった。
 左の前足が震えていた。今度は左足を出そうとしているらしかった。好子は小躍りしたい気持ちで、 一メートルほど後ずさって、 両手を前に突き出した。
「チビ、 ここまでおいで、 ここまで」
 チビは首を下げて自分の足下を見ていた。なかなか意志どおりにいかない足の代わりに瞼だけがぴくぴく動いた。一生懸命であることが傍目にもわかった。
 引きずるようにして左足は五センチも動いたろうか。首がさっと持ち上がったと思うと、 四本の足を棒のように伸ばしたままの状態で、 もんどりうって地面に倒れた。踏み固められたでこぼこ道は、 痛いはずなのに鳴き声一つあげなかった。すぐに抱き上げて元のようにまた立たせて、 強く打ったと思われる場所を撫でてやった。
 一歩踏み出しては倒れ、 また立ち上がらせる。そんな繰り返しだった。
 一週間もすると、 チビは五歩ほど続けて歩けるようになった。好子の目に少しずつではあるが、 このまま回復していくように思われた。
 稀に見る大型台風が接近しつつあった。毎日雨が降り続いた。その影響かどうかわからないが、 またチビの足は立つことができなくなった。そしてもっと悪いことが起こった。一緒の部屋にいたコウメエーが同じ病気にかかった。八月の下旬だった。コウメエーは後ろの二本がもたついていたと思ったら、 次の日にはもう全部の足が動かなかった。
「おかあちゃん、 お願いやから、 お医者さんを呼んで」
 好子はたまらず母親に泣きついた。必死の思いで、 にが虫を噛み潰したような顔を前にして両手を合わせた。薄情な上に、 金にけちな母は内心しぶしぶであったろう。しかし近所の手前も考えたのかも知れない。
「これで歩けなければ、 駄目だと思ってほしい」
 役場に勤めている人に頼んで連絡をつけて来てもらった獣医は、 小さな瓶を差し出した。白い錠剤がぎっしりつまっていた。四百円した。父の日当は六百円ほどだった。二匹いて二瓶必要なのに、 母が買い求めたのは一瓶だけだった。
「おかあちゃん、 なんでや、 なんで一瓶しか買わないのや」
「あの山羊にはのませんでいい」
 思いもしなかったことに唖然として一瞬言葉を失った。たった四百円の金を惜しんで、 チビの方を顎でしゃくる母が、 得体の知れない恐ろしいものに見えた。ふっと涙がこぼれそうになった。敵意にも似た怒りがこみ上げてきて、 思わず鬼ばばあと叫んでいた。医者は何も言わず帰っていった。
 山羊の世話などしたこともない癖に、 母は薬をのませたがった。コウメエーの首を跨いで、 口を両手でこじ開けるようにした。コウメエーは嫌がって、 固く閉じたままだった。馬鹿なやつと言いながら母はコウメエーの頭を叩いた。
 何度試みてもコウメエーは決して口を開けなかった。自分の思い通りにいかない母は、 思案に暮れて最後に鼻を塞いだ。山羊は人間と違って、 口から息をしないらしく思われた。呼吸のできなくなったコウメエーは苦しそうだった。目をきょろつかせ、 首を頻りに動かした。腹がひくひくと波打った。とうとう我慢の限界がきたと見えて、 コウメエーは首をもたげた。それから、 大きく口を開けて悲鳴にも似た声をあげた。母はすかさず錠剤を投げ入れた。
 二日もすると、 薬剤が効いてきたのか、 腹ばいになったままで、 今まで棒のように投げ出していた前足を頻りに動かしだした。立ち上がりたいのだが、 まだそこまでの力がないらしかった。
 コウメエーが良くなれば良くなるほど嬉しいことだが、 反面、 脇で寝ているチビが哀れでたまらなかった。母の言い方を借りれば、 乳を出さず何の役にも立たなかったにしろ、 好子は平等に二匹を扱ってやりたかった。薬は十日分しかなかった。性格からして母が次なる薬を買うことは絶対にあり得ないと思うと、 じっとしていられない焦燥を感じた。
 三日目の朝だった。 
「おかあちゃん、 私がメエーちゃんにのませてやる」
 四錠の錠剤を手にして、 山羊小屋に行こうとしていた母の前に好子は立ち塞がった。母は、 無言のまま好子を見つめた。なかなか口を開かなかった。鬼ばばあと罵られたその目が、 おまえの考えは見透かしているのだと言いたげだった。好子はひるまず片手を前に突き出した。だが、 その手に母はなかなか薬を載せようとはしなかった。
「なに馬鹿なことをやっているんや、 はよ渡してやらんかい。薬ぐらい好子にまかせればいい」
 母娘の様子を傍でうかがっていた父が苛立った声をあげた。母は父には逆らえないらしかった。
 四錠の錠剤を手に持つと好子は山羊小屋に急いだ。後を追ってきた妹に二錠手渡した。
「あんたは、 コウメエーにのまし」
 内に入いるや好子はすぐにチビの首を跨いだ。母がやっていたように鼻を手で押さえた。チビが口を開けるのを待ちながら、 母の足音が今にも聞こえてきそうな気がした。コウメエーの方はいくら時間がかかってもよいが、 チビに与えている現場を見られないようにと気持ちばかりが焦った。どういうわけかチビはすぐに口を開けた。
 一週間がたった。母が薬の小瓶を目の前にかざして、 じっと見入っていた。どうやら残った数を数えているらしかった。馬鹿なやつ、 好子は内心そんな思いだった。
 どうか歩けるようになってくれと祈るような毎日だった。しかし、 十日目の朝が来ても二匹は立ち上がることはできなかった。当然の結果かも知れなかった。もし、 コウメエーだけにのませておけば、 コウメエーは歩けるようになったろうか……。だが好子は、 自分のやったことに後悔はしないつもりだった。同じ屋根の下に生活しながら、 一方には薬を与え、 あとの一方の方は振り向いてもやらないそんな飼い方など、 彼女自身が絶対に許さなかった。
 朝夕涼しい風が吹くようになった。仲秋の名月の朝だった。好子はいつものように山羊小屋に向かった。戸口の手前でコウメエーと目が合った。コウメエーは部屋の奥の壁に頭を凭れて入り口の方を見ていた。久しぶりに生き生きと輝いていた。今日は元気がいいように見受けられた。
 入り口を開け、 内に入った。部屋の中は歩くと換えたばかりの藁がかさかさとなった。二匹の足がだめになってからは、 今までよりも頻繁に藁を換えるようになっていた。コウメエーまでの距離が三メートルはあったろうか。大股で歩いた。近寄っていきながら微笑みかけた。
「やあ、 コウメエー」
 傍に座りこんだ。それから、 「おはよう」 と、 にこにこ顔で話しかけた。コウメエーのいる場所は、 この春生まれた子山羊のために建て増しした小屋の影になっていて、 横たわっている体の上を涼しい南風が抜けていた。
 頭を抱え込もうとして伸ばした両手を、 はっとして好子は思わず止めてしまった。生き生きとして、 微笑んでいるようにすら見えるコウメエーの視線が一点を向いたまま動かなかった。
「メエーちゃん」
 無意識のうちに、 好子はコウメエーの顔を両手で包みこんでいた。注意して見ると、 輝くばかりの目の中に細い糸屑のような埃が三つ見えた。慌てて腹の上に視線を移した。不安が的中して、 やはり呼吸がなかった。好子はそれから慌ててチビの方に視線を移した。死があまりにも唐突すぎたので、 ふと殺されたのではという気持ちが働いたのだ。
 チビは頭をもたげたままで、 好子を見ていた。今までに見たこともない悲しい目の色をしていた。既に母親の死を理解していると見えた。コウメエーに気をとられて気づかなかったが、 おそらく好子が山羊小屋に近づいたときから、 チビは好子の一部始終を見ていたに違いなかった。好子の目からみるみる大粒の涙が溢れて頬を伝わった。このとき、 好子は自分を頂点として、 妹とコウメエーたちと四人で築いてきた一つの家庭が音を立てて崩れたのを自覚した。子山羊のときから、 いつも好子の後ばかりついて歩いていたチビにしてみれば、 突然襲った悲しみを分かち合える唯一の相手は好子かもしれなかった。
「チビ……」
 後は言葉にならなかった。好子はコウメエーの頭を両手で包み込むように抱えたまま、 今度は声をあげて泣き崩れた。
 コウメエーが死んだことを妹に伝えた。わぁわぁと声をあげて泣きじゃくる妹を、 好子は自分も泣きながら、 泣くなと叱りつけた。
 納屋から麦藁で編んだ薦を出してきて全身を覆った。蠅にたかられることは必然だろうし、 死体を誰にも見られたくなかった。
 それから腑抜けた状態で学校に行く用意をした。コウメエーが死んだために学校を休んだと知ったら母は何と言って怒るかしれなかった。
 通学路を歩きながら、 稔った稲が次々と刈られていくのが見えた。稲刈りの季節で、 朝早くから人々は田圃で働いていた。そのおかげで、 今朝母も家にはいなかったのだ。しかし、 好子は一歩一歩と歩を進めたけれども、 これほど自分の心に逆らった行動をしたことはなかった。
 夜になった。満月が東の空高く昇っていて、 澄み切った夜空は雲一つなかった。星がいつもより大きく輝いて見えた。しかし好子の心を映して、 全てのものが悲しい闇の景色だった。
 コウメエーとの永遠の別れが刻々と近づいてきていた。
「お月見さんは、 メエーちゃんを埋めてからにしよう」 と言って、 夕食を終えると孫一が立ち上がった。
「この山羊は死んでもきれいだ」
 コウメエーの体を抱きかかえて小屋の外に出しながら孫一が感想を述べた。季節がら、 コウメエーの体からはもう死臭が漂っていた。普段、 土を素手で触っている癖に、 頭のほうを持てと言われて、 母は寝床の藁を当てがって、 コウメエーの頭に手をやるのだった。
 コウメエーは河川敷きの草場に埋葬された。石ころで埋めつくされている川原から二メートルほど高くなって、 自然のままに放置された草場は、 大水が出るたびに端のほうから少しずつ削り取られていた。コウメエーを載せた畚の一方を担いで父の前を歩く母はどういう心理なのか、 「大水が出たら流れるように」 と言いながら、 崩れてきている端の方の近くへ近くへと進んでいくのだった。
「もう、 この辺でいい」
 怒ったように言う父の声に好子はほっとした。
 コウメエーの眠る穴は、 野犬に掘り返されないようにと深めに掘った。父と母で掘り進めた。すぐにスコップを置こうとする母に対して、 父はまだだめだと叱りつけた。父の気持ちはありがたかった。
「二人で川原に行って、 墓石にする大きな石を探しておいで」
 穴から這い上がった父は、 好子を見た。どうやら、 土を被せられるコウメエーを見せたくないらしく思われた。好子は妹の手を引っ張ってその場を離れた。しばらく行くと、 埋めてしまうには惜しいほどきれいだと、 父の声が背後でした。
 長い間、 日照りが続いていた川の水は、 地表に出た伏流水だったろう。帯のように細くなったせせらぎに、 満月の光が反射してきらきらと輝いていた。堤防を横切ったその向こうに稜線が黒い影となって迫っていた。好子は涙を堪えて大きな石を探した。何度も手にしていた石を放り投げては、 もう一回り大き目の石に手を伸ばした。川原は広かった。行動は尽きることなく、 幾度石を拾っては捨てただろうか……。もうそろそろ行こうよと妹に言われるまで、 好子は石を拾い続けていた。
 戻った好子に、 盛り上がった土の上を足で踏んで馴らしていた父は笑いながら言った。
「おお、 大きな石やのう、 ようこんな石さげてこれたのう」
父は好子の手から石を受け取ると、 ここがコウメエーの眠っている頭の上あたりだと言いながら石を置いた。
 チビとの別れも、 やはり予期しなかったときにやって来た。厳しい冬が過ぎて、 野山には新しい草花がここかしこに咲き乱れていた。
「好子ちゃん、 メエーちゃんがな……」
 学校帰りの途中で出会った村人が、 早口で話しかけてきた。人がよいと評判の村人は、 何か切羽詰まったものを好子に感じさせはしたが、 初め何を言いたいのかわからなかった。村人は右手を好子の家の方角に高く指し示していた。しかし、 もともとつかえがちな村人の口調は、 焦れば焦るほど次の言葉が出てこなかった。
「あんなとこのお母ちゃんがな……、 メエーちゃんがな、 山羊買いに連れていかれてるよ。早はよう行って……」
 最後まで聞かないうちに好子はもう地面を蹴って走りはじめていた。しかし、 焦れば焦るほど、 自分でももどかしいばかりに前に進まなかった。走りながら、 母に対する狂おしい怒りが全身にふつふつと沸き起こっていた。命ある全てのものに、 慈しみを持てない性格の母に、 今までそういう懸念を抱かなかったのは迂闊だったかも知れない。
 母は山羊小屋の前にいた。チビのいた部屋は空っぽだった。
「チビはどこや」
 母は、 肩を大きく上下に波打たせて、 荒い呼吸をする好子を冷ややかな視線で見つめて無言だった。
「早く言え、 チビをどこにやったんや」
 母はやはり応えようとはしなかった。
「鬼ばばあ、 おまえなんか死ね!」
 好子はあらんばかりの力で、 持っていた鞄を母親に向かって投げつけていた。
「痛いなぁ、 この子は親に向かってなんていうことをするんや」
「何が親のもんか、 この鬼おんな……」
「あの山羊は死んだほうが幸せなんよ」
「ふだけたことを言うな、 ちゃんと薬のんで、 歩けたほうが幸せだったのに、 それさえもしてやらなかった鬼ばばあが……」
 近くの田圃で働く農婦が仕事の手を止め、 立ち上がって二人の争いに視線を投げているのが見えた。農婦は悲痛な表情だった。好子と目が合うと、 彼女は無言のまま右手を高く指し示した。チビの連れて行かれた方角を教えてくれたに違いなかった。
 好子はまた走り始めていた。迂回するように伸びる道路を過ぎて、 石垣で囲ってある本家の塀の角を曲がった。そこからは、 直線の道が長く続いていて、 ずっと先まで見渡せた。
 チビはがっちりとした金網で編んだ籠に入れられて百五十メートルほど先にいた。山羊買いはこの辺でチビの話を聞いて、好子の家へ来たに違いなかった。オートバイにはもうエンジンがかかっていた。
「チビ……」
 チビは狭い籠の中で、名前を呼ぶよりも先に、あの大きな耳で好子の足音を聞き分けて振り向いていた。しかし、いつもなら、好子の呼びかけに鳴き声をあげて返事するのに、首一つ動かさなかった。堤防で猟犬に襲われたときには、震え上がって好子の背後に隠れたくせに、知らない男の籠に入れられて、好子の前から連れ去られようとしているのに、ただ好子のほうをじっと見ているだけだった。生まれてすぐに好子の傍にやって来てから、好子との間には、分かちがたい絆が結ばれているはずなのに、入れられている窮屈な籠から出たいという素振りさえしなかった。好子は泣きながら叫んだ。
「チビ……、待ってくれ」
 椅子に腰かけていた男は、ハンドルを持ったまま振り向いた。しかし、男は好子を見て吊り上がった目を一瞬こわばらせると慌てて、オートバイを発進させた。好子までの距離があと二十メートルほどだった。
 長閑な田園風景の中を、農道はどこまでも一直線に続いていた。見る間にスピードを増して遠ざかっていくオートバイの荷台から、チビはずっと好子の方に視線を投げたまま、ずんずんと小さくなっていった。



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